松平家広 (形原松平家)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
松平 家広(まつだいら いえひろ、?-元亀2年2月29日(1571年4月3日))は三河国の形原城(蒲郡市形原町東古城)主。幼名は佐太郎。
15世紀末より(文明12年とされる)現在の蒲郡市形原に移った形原松平氏第4代当主である。父は第3代松平親忠。於大の方の姉、於丈の方を妻とするが後に離縁。於丈の方との間に松平家忠をもうける。父親忠は松平清康に従っていたが、清康の殺害(1535年の守山崩れ)後の織田信秀の安祥城(安城市安城町赤塚)攻め(1540年)や小豆坂の戦い(1542年)の際の動向は明らかでなく、桶狭間の戦いを経て、永禄5年(1562年)織田・松平の和睦の後に今川氏と敵対することとなった。同年に家督を継ぎ、薩摩守となる。
娘は石川数正の妻。子は同家5代当主の松平家忠。孫の松平家信(紀伊守)は摂津国高槻藩を経て下総国佐倉藩主となる。
墓所は愛知県蒲郡市西浦町北馬場の光忠寺。法名は元忠院殿仁誉孝呈道伯。
[編集] 関連項目
- 形原松平家
- 松平氏