月照
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月照(げっしょう、1813年(文化10年) - 1858年12月20日(安政5年11月16日))は、幕末期の尊皇攘夷派の僧侶。名は宗久、忍介、忍鎧、久丸。
1813年、大坂の町医者の長男として生まれた。1827年、叔父の蔵海の伝手を頼って清水寺成就院に入る。そして1835年、成就院の住職になった。しかし尊皇攘夷に傾倒して京都の公家と関係を持ち、徳川家定の将軍後継者争いでは一橋派に与したため、大老の井伊直弼から危険人物と見なされた。西郷隆盛と親交があり、隆盛が尊敬する島津斉彬が急死したとき、殉死しようとする隆盛に殉死を止めるように諭している。1858年8月から始まった安政の大獄で直弼から尊皇攘夷派の危険人物の一人として見なされて追われる身となり、隆盛と共に京都を脱出する。そして薩摩藩に逃れたが、藩では厄介者である月照の保護を拒否し、日向国送りを命じる。これは、薩摩と日向国の国境で月照を斬り捨てるというものであった。このため、月照も死を覚悟し、隆盛と共に錦江湾に入水自殺した。月照はこれで亡くなったが、隆盛は奇跡的に一命を取り留めている。享年46であった。僧月性とは別人。
[編集] 辞世の歌
- 大君の ためにはなにか 惜しからむ 薩摩の瀬戸に 身は沈むとも