曲亭馬琴
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曲亭 馬琴(きょくてい ばきん、男性、明和4年6月9日(1767年7月4日) - 嘉永元年11月6日(1848年12月1日))は、江戸時代後期の読本作者。著作堂主人とも。本名は瀧澤興邦(たきざわ おきくに)、漢字制限(当用漢字、常用漢字、教育漢字)により滝沢興邦とかく。後に解(とく)と改める。
筆名の曲亭馬琴は、読み方を変えると「くるわでまこと」(廓で誠)、すなわち遊廓でまじめに遊女に尽くしてしまう野暮な男という意味である。なお、現在は多くの本や教科書に滝沢馬琴と書かれているが、これは明治以降に使われるようになった表記であり、本人は滝沢(瀧澤)馬琴という筆名は用いていない。
江戸深川の旗本・松平鍋五郎の屋敷の用人、滝沢興義の三男として生まれた。9歳の時に父が亡くなり、その翌年に長兄から家督を譲り受け松平家に仕えるが、15歳の時松平家を出て放蕩生活に入った。24歳の時に山東京伝の弟子となり、戯作者として出発した。寛政5年(1793)27才の時に蔦屋重三郎の世話で履物商会田家のお百の婿となり、文政7年(1824年)58才まで、飯田町世継稲荷(現・築土神社)下にあった会田家に居住。その後は晩年まで、神田明神下にあった息子の宗伯宅に居住した。読本の『南総里見八犬伝』が特に有名で、執筆に文化11年(1814年)から天保13年(1842年)までの28年を費やした。最後の所を書いていた頃には老齢と長年の多忙な作家活動のため目が見えなくなっており、息子の宗伯の妻、お路に口述筆記をしてもらっていた。このことに妻のお百が嫉妬し、何かあればお路をいじめていたという。
他に『椿説弓張月』、『近世説美少年録』などの作品がある。 読本より通俗的で、発行部数の多い黄表紙や合巻などの草双紙も多く書いた。中年以後の日記が残っており、芥川龍之介はこれに基づいて『戯作三昧』を書いたが、以後、小説に登場する馬琴は、おおむね、老人としてである。杉本苑子『滝沢馬琴』、平岩弓枝『へんこつ』、森田誠吾『曲亭馬琴遺稿』などがある。山田風太郎『八犬伝』は、八犬伝の筋を紹介しつつ馬琴の生活も描くもの。
ほぼ同時代に大坂では上田秋成が活躍した。
[編集] 作品
- 南総里見八犬伝(なんそうさとみはっけんでん)
- 椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)
- 近世説美少年録(きんせいせつびしょうねんろく)
- 俊寛僧都夢物語(しゅんかんそうずゆめものがたり)
- 松染情史秋七草(まつそめじょうしあきのななくさ)
- 三七全伝南柯夢(さんしちぜんでんなんかのゆめ)
- 朝夷巡島記(あさひなじゅんとうき)
- 開巻驚奇侠客伝(かいかんきょうききょうかくでん)
- 新累解脱物語(しんかさねげだつものがたり)
- 傾城水滸伝(けいせいすいこでん)