春と修羅
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春と修羅(はるとしゅら)は、宮沢賢治の制作した口語詩。また、同作品を収録した詩集のタイトルでもある。賢治の生前に唯一刊行された詩集として知られる。賢治はそれに続いて制作した作品にも同じタイトルを付けて詩集として続刊することを企図していた。(それぞれ『春と修羅 第二集』『春と修羅 第三集』)ここではそれらも含めて記載する。
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[編集] 詩「春と修羅」
詩集では制作日として「1922.4.8」という注記がある(賢治の場合、発表までの間に何度も書き直しを行う場合がほとんどであるため、第一稿を着想ないしは執筆した日付と考えられている)。また、タイトルに"mental sketch modified"という副題が付されている。なお、本詩集中の「青い槍の葉」「原体剣舞連」にも同じ副題が付いている。
「心象の はいいろはがね(灰色鋼)から」で始まる本作は、「おれはひとりの修羅なのだ」という箇所に象徴される、主人公「おれ」の自己規定もしくは自己宣言を伴った内容となっている。また、春(の情景)と心象風景という「内面と外景」「光と影」といった対比が印象的で、これは他の賢治作品にもしばしば見られる特徴となる。これらの点が、続刊の詩集においてもタイトルとして引き続き用いられる一因とも考えられる。
この作品の一部は少しずつ各行の段組が上下にずれ、全体がうねっているような形になっており、それによって詩人の内面の動揺が外界の知覚をも歪ませている様が表現されている。
[編集] 詩集『春と修羅』(第一集)
上記作品を含めた68編の作品と、「序」(これを作品と見なすと69編)からなる詩集。1922~23年に制作された作品が収録されている。 1924年4月20日、東京の関根書店から刊行。ただし事実上は賢治の自費出版である(実際の印刷は賢治の住んでいた花巻の印刷所で行われた)。正確なタイトルは『心象スケッチ 春と修羅』で、賢治自身は「詩集」と呼ばれることを好まなかった。タイトルには第一集とはつかないが、その後の第二集・第三集から遡って(区別するために)第一集とも呼ばれる。
上記表題作のほか、「小岩井農場」や妹トシの臨終を題材とした「永訣の朝」、そのトシの魂との交流を求める様子を詠んだ「青森挽歌」「オホーツク挽歌」等の作品がよく知られる。
賢治は刊行に当たって作品の推敲や配置などにかなり意を砕いたことが、現存する印刷用の原稿に残された書き込みなどから窺える。また、刊行後にも数冊の詩集本文に書き直しの書き込みを行っており、そのうち3冊が現存している。これらの内容の異同は、『【新】校本宮澤賢治全集 第二巻 校異篇』(筑摩書房刊)で確認することができる。
詩の多くは「心象スケッチ」と賢治自身が名付けた手法によって書かれ、時間の経過に伴う内面の変容、さらにその内面を外から見る別の視点が取り込まれている。このため、難解であるとの評もある。
刊行当時、辻潤が読売新聞に連載していたコラムで激賞、佐藤惣之助も詩誌で評価するコメントを付した。しかし当時の世間一般には受け入れられず、大半が売れ残ってしまい、結局賢治が自ら相当の部数を引き取ることになった。引き取った『春と修羅』を岩波書店の学術書と交換するよう依頼する内容の岩波茂雄宛書簡も発見されている。
とはいえ、中原中也や富永太郎といった詩人も強い影響を受けたことが判明している。さらに、中国に留学していた草野心平は『春と修羅』を読んで「瞠目」し、日本に帰国後に創刊した詩誌『銅鑼』に賢治を同人として誘った。草野は賢治の存命中から没後にかけて、その作品の紹介に大きな役割を果たすことになる。没後における賢治作品の浸透を考えた場合(生前の賢治にその意識は薄かったとしても)、草野との接触はきわめて大きな意味を持つこととなった。
また、地元の岩手県の詩壇においてはこの『春と修羅』によって賢治は一定の評価を受けることとなった。その中で地元詩人との交友も発生し、旧制盛岡中学校の後輩(当時在学中)であった森荘巳池と知り合うこととなる。
[編集] 詩集『春と修羅 第二集』
[編集] 詩集『春と修羅 第三集』
[編集] その他
「校本宮澤賢治全集」(筑摩書房、1973~1977年)が刊行される以前は「春と修羅 第四集」と呼ばれる詩編が全集に収録されていた。これについては、校本全集の編集に伴う草稿調査によって、賢治自身がそのような形でまとめた形跡がなく、「第三集」以後の作品の一部を便宜的にそのように呼称していたことが判明したため、校本全集以降は存在しなくなっている。従来「第四集」とされてきた詩編の多くは「春と修羅 詩稿補遺」という形で全集に収録されている。
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