徐向前
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徐向前(じょこうぜん、スー・シャンチャン、Xu Xiangqian、1901年11月8日-1990年9月21日)は、中華人民共和国の軍人。政治家。建国の功労者で、いわゆる十大元帥の一人。本名は徐象謙、字は子敬。
山西省忻州市五台県の生まれ。地主の家庭で生まれ、1919年太原の師範学校に入学、1924年には広東省の黄埔軍官学校に入学して一期生となった。国民党軍として北伐にも参加している。1927年、中国共産党に入党。広州コミューンに参加した。
はじめ徐海東が組織した工農軍に、中華ソヴェト政府副主席の張国燾とともに合流し、河南・湖北・安徽にまたがる鄂予皖ソヴェトを組織した。徐向前は第四方面軍を建軍して総司令となった。国民政府の攻撃を避けて西へ退避するも、1935年には四川省北部で十万を擁する大軍となった。四川省毛児蓋で長征途上の毛沢東・朱徳・周恩来率いる第一軍と合流したが、ここで北進するか四川に残るかで毛沢東と張国燾が対立、毛沢東ら第一軍は北進し、甘粛省を越えて陝西省へ向かったが、徐向前は張国燾に従い、朱徳、李先念とともに四川省に残った。のち賀龍率いる第二軍と遭うも統一せず、分裂して行動したため、徐向前率いる軍隊は壊滅的被害を受け、散り散りになって延安に辿り着いた。1937年に延安で開かれた中央委員会で張国燾は非難され、党を離れることになった。張に従った徐は責任を問われることは無かったが毛沢東の批判を受けて格下げされた。
第二次国共合作時には八路軍第129師副師団長、中共中央革命軍事委員会委員。山西省で閻錫山を説得して抗日戦線で共闘した。第二次大戦後の国共内戦では病をおして閻錫山と戦った。1949年省都太原を包囲すると閻錫山は飛行機で脱出、太原を解放した。
1949年に中華人民共和国が建国されると、総参謀長に就任。1955年に中華人民共和国元帥を任官した。1966年党中央委軍事委員会副主席。文革が発動されると1967年1月に人民解放軍文革小組組長に就任。同年の「二月逆流」で江青ら文革小組と対立、首謀者の一人とされ4月に解任された。1968年から69年にかけて北京の機関車車両工場で労働に従事した。1975年に復活して全人代常務委副委員長。1978年3月国務院副総理兼国防部長に就任(1980年まで)。
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