張紘
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張紘(ちょうこう 生没年不詳)は、呉の武将。字は子綱。張靖・張玄の父、張尚の祖父。
広陵の人。共に智謀に優れていたため、張昭と共に『江東のニ張』と称された。孫策が独立すべく挙兵したとき、その参謀として活躍している。このとき、孫策に「総大将たる者が最前線に立つべきではない」と諌めている。孫策の命で曹操の内情を探るべく使者に立ったとき、曹操に気に入られて侍御史の位を与えられ、そのまま曹操のもとへ留められた。孫策の死後、その隙を突いて曹操が孫権を攻めようとしたとき、曹操に諫言して出陣を止めさせている。直後、曹操のもとから離れて孫権のもとへと戻った。病気を理由に、曹操のもとから離れたと言われている。
張紘は政治面に優れており、帰参した直後、孫権に会稽東部都尉に任命されている。孫権に厚く信頼され、『東部』と尊称で常に呼ばれた。晩年は孫権に建業遷都を進言した。そして遷都後、病死した。享年60。
張紘は政治家として優れていただけでなく、名文家としても優れていたと言われている。