山田長政
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
山田 長政(やまだ ながまさ、天正18年(1590年)頃 - 寛永7年(1630年))は、江戸時代前期にシャム(現在のタイ)の日本人町を中心に東南アジアで活躍した人物。通称は仁左衛門(にざえもん)。
目次 |
[編集] 人物伝
駿河国沼津出身。1612年に朱印船でシャムに渡った。後に、津田又左右衛門筆頭の日本人傭兵隊に加わり、頭角を著しアユタヤー郊外の日本人町の頭領となった。アユタヤー王朝の国王・ソンタムの信任を得て、第三位であるオークヤー(あるいはプラヤー)・セーナーピムック( ออกญาเสนาภิมุข)という官位・欽賜名を授けられ、チャオプラヤー川に入る船から税を取る権利を得た。
ソンタム王の死後、長政はソンタム王の遺言に従い、シーウォーラウォン(後のプラーサートトーン)と共同でチェーターティラートを王にたてたが、チェーターティラートはシーウォーラウォンに不審を抱き排除しようとして失敗し、シーウォーラウォンに処刑された。その後チェーターティラートの弟のアーティッタヤウォンが王としてたてられたが、あまりに幼すぎるので、官吏らはそのころチャオプラヤー・カラーホームスリヤウォンに昇進していたシーウォーラウォンに王位に付くように願った。長政はこれに頑固に反対したために、宮廷内で反感を買った。この時、当時アユタヤの貿易を独占していた日本人勢力と対立関係にあった華僑の勢力の圧力が宮廷内に及び、長政は六昆(ナコーンシータマラート、Ligor)の防衛を理由にシーウォーラウォンによって左遷された。長政は1630年、パタニ軍との戦闘中に脚を負傷し、傷口に毒入りの膏薬を塗られて死亡。毒を塗られたのはカラーホームの密命によるものとオランダの史料は記している。その後、ナコーンシータマラートの知事は息子のクン・セーナーピムックが引き継いだが、内部対立があり同じ日本人傭兵によって殺され、山田長政の死と同じ年に、プラーサートトーン(シーウォーラウォン)は「日本人は反乱の可能性がある」とし、シャイフ・アフマドら率いるアラビア人、タイ族、華僑の組織する兵によってアユタヤ日本人町は焼き打ちされた。
なお、日本の文学では、長政のタイ名を「オーヤー・セナピモック」、シーウォーラウォンあるいはチャオプラヤー・カラーホーム・スリヤウォンを「オーヤー・カラホム」とし、親しまれている。なお、長政が南部の王国の王となったと信ずる人もいるが、任命されたのは知事であり、正しくない。
[編集] 関連項目
[編集] 山田長政関連作品
[編集] 研究書
- 史実 山田長政/江崎淳 ISBN 4404013221
- 史伝 山田長政/小和田哲男 ISBN 4059010588
- 山田侍のクルンスィー(タイ語)/ワンチャルーム・チャンタラークン ISBN 9749080971
[編集] 小説
- 山田長政の密書/中津文彦 ISBN 4061852809
- 王国への道 - 山田長政/遠藤周作 ISBN 4101123195
- 山田長政の秘宝 - シャム日本人町の超人/和久峻三 ISBN 4041421764
- 山田長政・他/山岡荘八 ISBN 4061950592
- 風雲児/白石一郎 ISBN 4167370182(上巻)・ISBN 4167370190(下巻)
- 暹羅国武士盛衰記 - 真説ヤマダナガマサ/岩城雄次郎 ISBN 4875381107
[編集] その他
- リゴール総督・山田長政・・・紙芝居
- 山田長政 - 王者の剣・・・映画
- 「メナムに赤い花が散る」宝塚歌劇作品、作植田紳爾
[編集] 外部リンク
- メコンプラザの山田長政関連・・・前項で挙げた著作の一部のレビューなど。
- 上記サイト内のページ。山田長政非実在論を説く矢野暢の新聞欄に寄せたコメント。決定的な否定に至っていないが、長政研究の盲点をついたエッセー。