山本玄峰
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山本 玄峰(やまもと げんぽう、1866年(慶応2年) - 1961年(昭和36年))は和歌山県本宮町生まれの禅僧。昭和において多くの著名人が参禅に訪れた静岡県三島市の龍沢寺の住職として有名。鈴木貫太郎に終戦を勧め、戦後も象徴天皇を鋭く示唆する。
[編集] 略歴
産まれは旅館の前に盥の中に捨てられていた乳児を、近くの岡本夫妻に育てられたという。十代前半のころから筏流しなど肉体労働に従事してたが、二十代になって目を患い失明(わずかに光は感ずることができたという)になり四国八十八箇所の霊場巡りに旅立つ。素足で巡礼をしていたという逸話がある。7回目の遍路の途上、高知の雪渓寺の門前で行き倒れとなったところを山本太玄和尚に助けられ、そのまま雪渓寺で修行し、その養子になった後、雪渓寺の住職となる。
その後、数々の寺院を再興した後、臨済宗妙心寺派の管長となり、後に龍沢寺の住職となる。
昭和20年、終戦の詔勅にある「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」の文言を進言するなど、時の首相鈴木貫太郎などの相談役なども努めた。
葬儀には外遊中の池田勇人首相の名代として大平正芳官房長官などが列席した。
弟子に中川宗淵、田中清玄がいる。
多くは文字を知らなかったとされるが豪傑として知られ、その姿を見た剣の達人は「あの人は斬れない。衣と体がひとつになっている。ああいう人は斬れない」と周囲に洩らしたという話がある。
[編集] 著作
- 無門関提唱(大法輪閣、1960年)