山上宗二
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山上宗二(やまのうえのそうじ、天文13年(1544年) - 天正18年4月11日(1590年)は、桃山時代の堺の豪商(町衆)であり、茶人として知られる。なお忌日は2月27日という説もある。屋号は薩摩屋、号は瓢庵。本姓は石川か。
千利休に20年間茶の湯を学んだ高弟であり、利休に同行して茶会に出席している様子が当時の茶会記から確認される。茶匠としては豊臣秀吉に仕えていたが(織田信長にも仕えたという説もある)、天正12年に持ち前の口の悪さから秀吉の怒りを買い、浪人する。この時に前田利家に仕えるようになるが、同14年にも再び秀吉を怒らせて高野山へ逃れ、同16年頃から自筆の秘伝書『山上宗二記』の写本を諸方に授けている。その後は小田原に下って北条氏に仕えた。
同18年の秀吉の小田原攻めの際には、利休を介して秀吉との面会が叶ったが、またまた秀吉の聞きたくないことを口に出し秀吉の怒りを買い、耳と鼻を削がれた上で打ち首にされた。
茶道史においては、天正年間の堺衆の茶の湯の基本史料となっている『山上宗二記』(その茶湯者覚悟十躰に「一期に一度」とある)の筆者として重要である。ただ利休の急激な侘びへの傾斜には戸惑いを隠さず「山を谷、西を東と茶湯の法度を破り、物を自由にす」と批判とも取れる見解を書き残している。
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