安藤重信
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安藤 重信(あんどう しげのぶ、1557年(弘治3年) - 1621年8月16日(元和7年6月29日))は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将(大名)。安藤基能の次男で、安藤直次の弟。
徳川家康に仕え、1584年の小牧・長久手の戦い、1600年の関ヶ原の戦いでは徳川秀忠軍に属して真田昌幸(西軍)が守る信濃国上田城攻めに参加した。1611年、奉行に任じられ、翌年12月には下総国小見川に2万石の所領を与えられ、大名となった。1614年、大久保長安事件で大久保忠隣が改易されたとき、高力忠房と共に小田原城の受け取りを務めた。
同年、冬からの大坂の役には冬、夏とも参戦し、夏の陣では大野治房率いる豊臣軍と戦ったが、敵の猛攻の前に敗退した。1619年、上野国高崎5万6000石へ加増移封された。同年、福島正則が改易されたとき、広島城に向かって永井直勝とともにその後の処理を担当した。1621年6月29日、65歳で死去。家督は安藤重長が継いだ。墓地は東京都杉並区永福にある長福寺(栖岸院)。
怪力伝説があり、前述の広島城受け取りの際、船から落ちた共の者を掴んで助けた時に、ちょっと掴んだだけなのに掴まれた部分が痣になって後々まで残ったとか、小姓にたくさんの鎧や銃を担がせ、その小姓を碁盤に乗せ、その碁盤を担いで城内を一周したという伝説もある。