天野宗歩
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天野宗歩(あまの そうほ(「そうふ」とも)、文化13年(1816年) - 安政6年5月13日(1859年6月13日))は、江戸時代末期に活躍した将棋指し。
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[編集] 来歴
大橋家に残された「天野宗歩身分留」という古文書には、武蔵国の生まれとある。幼名は留次郎。
当時世襲制だった名人には推挙されなかったが、名人より強いとされ、「実力十三段」と恐れられた。のちに棋聖と呼ばれるようになる。現在のタイトルのひとつである「棋聖戦」は、ここに由来する。
嘉永5年(1852年)に11代大橋宗桂の推薦で御城将棋に出仕している。
将棋は強かったが、素行は悪く、賭将棋をしていた記述が残されている。1859年に42歳で死んだが、「天野宗歩身分留」には、表向きは病死ということで寺社奉行に届け出たとあり、実際の死因は明らかにされていない。
[編集] その他
- 棋譜も多数残されているが、宗歩の実力が抜きんでていたため、その手合割の多くは駒落ちである。定跡書「将棋精選」(嘉永6年=1853年)、「将棋口伝」(発行年未詳)、実戦集「将棋手鑑」(明治10年=1877年)などが発行されている。
- 将棋の駒の書体にも「宗歩好(そうほごのみ)」と名付けられたものがある。
- 真剣師の平畑善介は将棋が上手くなりたいなら宗歩の棋譜だけを読めと言っている。
[編集] 参考文献
- 増川宏一『将軍家「将棋指南役」』(洋泉社新書y、2005年)