多鯰ケ池
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多鯰ヶ池(種ヶ池とも たねがいけ)は鳥取県鳥取市にある池。鳥取砂丘の背後にあり、透明度の高い美しい水をたたえ、荒涼とした鳥取砂丘の風景と好対照をなしている。多くの池と同じく蛇伝説がある。
[編集] 概要
池の周囲は3.4㎞、面積約24.8ha、南の山地側は湾入部のある複雑な地形だが、北の砂丘側はほぼ直線で、急斜面で湖底に達している。最深部の水深は15.1mあり、中国地方で最深である。北岸に弁財天を祀った「大島」と呼ばれる森は明治初期までは島だったが、新砂丘の発達で陸続きになった。後述する浜湯山への灌漑用水路以外に流入河川、流出河川とも存在しない。鳥取県内には珍しい貧栄養湖である。
[編集] 成因
第4紀更新世にあたる約10万年前に、南側の凝灰岩でできた丘陵の谷に古砂丘層が堆積、その上を約5万年前の大山の大噴火で噴出した大山倉吉軽石がおおって水が浸透しなくなったのが成因と考えられている。海跡湖かせき止め湖か議論されたが、現在では火山灰によるせき止め湖とされている。山陰最古の湖沼である。
[編集] 新田開発の歴史
池の東の峠を越した浜湯山には、安政年間まで湯山池という潟湖があった。その頃は砂丘の砂の移動が激しく、浜湯山の人々は飛砂に苦しめられた。庄屋の宿院義般は農民の窮状を救うため、植林をして飛砂を止めるとともに、湯山池を干拓して新田を作ることにした。湯山池の水位より多鯰ヶ池の水位が16mも高かったため、トンネルを掘りその水流に砂を流して湯山池を干拓した。トンネルは多鯰ヶ池の水面下3.6mの水準で、幅・高さともに1.8m、全長382mという設計だった。工事は1859年(安政6年)に始められ、1862年(文久2年)に一応の完成を見ている。明治維新後も事業は継続され、1871年(明治4年)には池全体50㌶が埋め立てられた。トンネルは今も夏場の灌漑用水路として機能している。