塩焼王
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塩焼王(しおやきのおおきみ、? - 764年10月21日(天平宝字8年9月18日))は、天武天皇の孫で、新田部親王の子。聖武天皇の皇女(孝謙天皇の異母姉)である不破内親王を正妃とした3世の皇族。
742年、女官との不適切な関係により、伊豆に流罪となった。但し、この事件の背景には恭仁京遷都や義弟・安積親王への皇位継承などを巡っての義父・聖武天皇との政治的な対立の可能性も指摘されている。745年に許されて帰京する。757年の道祖王の廃太子後の後継者選びでは藤原豊成・藤原永手らの推薦を受けたものの立太子には至らなかった。橘奈良麻呂の乱では、天皇に担ぎ出されようとした為、配流に処されそうになったが、特赦により免罪される。後名誉回復し、翌年に臣籍降下し氷上真人の姓氏を賜るが、一族の多くが政治的な混乱に巻き込まれている。聖武天皇の皇女・不破内親王の夫で塩焼王自身も天武天皇の皇孫であることや豊成・永手といった藤原氏内部からの支持もあった塩焼王には皇位継承の可能性があり、これを恐れた当時の権力者藤原仲麻呂が牽制した結果と想像される。その後は光明皇太后の大葬などの遂行に活躍して、藤原仲麻呂の信任を得て何事もなかったかのように昇進するようになった。
764年、皮肉にもかつて塩焼王の皇位継承を阻んだその藤原仲麻呂(恵美押勝)に擁立されて天皇となるべく反乱(藤原仲麻呂の乱)を起こすが、間もなく鎮圧されて琵琶湖畔で処刑された。
カテゴリ: 飛鳥・奈良時代の皇族 | 764年没