善意支払
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
善意支払とは、民法、手形法上の概念の一つ。金銭債権の準占有者など、金銭の支払を目的とする債権者の外観を備えた者に支払った者を保護する制度である。
目次 |
[編集] 民法第478条
b:民法第478条とは、真の債権者以外の者に弁済した場合の処置を規定する。債権の準占有者に対する弁済一般を保護する規定であるが、債権の目的が金銭の支払である場合は、善意支払の問題となる。
債務の本旨からすれば、本来債権者本人に弁済するものであるが、債権の譲渡が入り組んで真の債権者が明瞭でない場合には、債権の準占有者に対して弁済すれば、それを有効と見なす。
現在の本条文の運用では、真の債権者ではない無権限者に払ってしまうケースにも適用している。相手が債権者であると信じて弁済した場合には、その弁済を有効と認めて、真の債権者に重ねて弁済する必要は無いとしている。
金融機関による預金の過誤払いに際しては、直接の対処を規定する法律や、預金を保護する法律が存在しなかったため、本条文が適用された。 キャッシュカードの不正使用に基づく過誤払いについては、預金者保護法が制定・施行されて預金者を保護する法整備が行われた。但し、法人の口座や預金通帳に関する過誤払いについてはいまだに約款や民法第478条を適用する。
[編集] 背景
現在の法運用上の解釈では、誤って弁済した債務者を保護するための条文と考えられる。一般に、債権者と債務者の立場を比較すれば前者の立場が強く、一方後者が弱いと考えられる。ここで、債務者が誤って他人に弁済を行った上で、真の債権者への弁済も課せられるとすると、二重払いを強いられることになり債務者に過酷である。一方、債務者が二重払いの危険を避けようと慎重になりすぎると弁済が円滑に行われず、ひいては経済活動に支障を来たす恐れがある。その為、弱者たる債務者を保護し、強者たる債権者に多少の我慢を甘受させて、弁済を円滑に行わせる。
[編集] 運用
民法第478条は、債務者が債権者へ弁済する際に適用することを想定しているが、金融機関が口座開設者へ預金を払戻す際、また、金融機関がローン契約による貸付けや定期を担保とした貸付金を払い渡す際にも適用される。他にも、保険契約者の利用者貸付制度における貸付金の払い渡しにも適用した判例がある。
[編集] 用語
債権の準占有者: 債権者としての外観を備える者を指す。借金においては、借用証書の所持者である。預金の払い戻しにおいては、対面の手続きで預金通帳と印章を提示した者、機械払いでキャッシュカードと暗証番号を提示した者を指す。
[編集] 基本的事例
以下の様な借金と返済のケースにおいて
- 甲が乙から借金をし、甲は乙に借用証書を差し入れる
- 第三者である丙が、乙の代理で来たと告げて、上記の借用証書を持参し債務の弁済を求める。
- 甲は丙の持参した借用証書を確認し、これと引き換えに丙に弁済する
- 借用証書が盗難に遭った事を告げて、乙が弁済を求める。
丙は、借用証書を持参していることから、債権者としての外観を備える準占有者とみなされる。丙の説明に不審な点がなく、債権者であると信じて行った弁済は有効として取り扱う。この場合、甲は乙に対して改めて弁済する義務を負わず、乙は甲に対して弁済を求めることが出来ない。
[編集] 預金払戻しにおける適用
金融機関が預金を誤って別の人に払い戻すケースに直接対応する法律は従来存在せず、本条文を類推適用した。
- 金融機関が預金を通帳持参者に払い戻す
を
- 債務者である金融機関が、債権の準占有者である顧客に借金を弁済する
と見なす。そして、準占有者への弁済を有効とする。
[編集] 貸付金払い渡しにおける適用
予め締結したローン契約の下で、或いは定期預金を担保とした貸付けの場面で、金融機関が貸付金を無権限の第三者に払い渡した場合は、その流動性に着目して、貸付金の出金行為を、普通預金の払い戻しと同等の行為と見なし、無権限者への払い渡しを有効とする。そして本来の契約者は負債を負ったり、定期預金を負債と相殺して喪失する。
[編集] 適用場面
従前は窓口における対面手続きで無権限者に出金する例が多かったが、近年は盗難キャッシュカードや偽造キャッシュカードを用いた、なりすましによる不正出金も増えている。判例では、非対面である事は民法第478条の適用を妨げない、としており、既に発生した不正出金の処理に課題が残る。尚、下記では預金の払戻しについて記述しているが、貸付金の払渡しでも同様である。
[編集] 盗難預金通帳等を用いた無権限者への払戻し(対面処理)
第三者が不正に入手した預金通帳を持参し、また、登録された物と同じ印影が捺された払戻請求書を提示して、金融機関がこれに応じた場合、判例では無権限者への預金払戻しを有効な弁済と認めて、真の預金者は最早預金払い戻し請求権を失うとしている。この判断の中では、
- 真正な通帳を持参・提示している
- 払戻請求書に捺された印影を照合して相違が認められない
- 普通預金の払戻しでは、平面照合で相違が認められない
ことを指摘して無権限者による払い戻しを排除するべく注意義務を果たしたと認める。
一方で、金額の多寡(著しく多額であるとか、預金の全額であるなど)、通常の取引との相違(通常に比べて多額の取引であるとか、通常は取引が無い日であるなど)、取引時刻(開店直後や閉店間際の慌ただしい時刻を狙い、本人確認等が疎かになるのを狙う)、通常取引の無い店舗である(取引実績が無い、自宅や職場からかけ離れている)の点は、直ちに不審を抱く要因にはならず、弁済の有効性を失わせるものではないとしている。
尚、定期預金の払戻しの場合には、より慎重な本人確認が求められる。判例では、預金者と来店者の素性が異なる場合には権限者の確認を重ねて行うべきであり、それを怠って無権限者に払戻した場合は無効として、預金の回復を命じている。一方で、普通預金の場合には流動性を重視し、家族が代わりに下ろしに来る事は珍しくなく、例えば熟年男性の預金口座から若年女性が預金を下ろしても、直ちに不審を抱くべきとは言えない、としている。
[編集] 盗難預金通帳等を用いた無権限者への払戻し(機械処理)
無権限者がATMに盗難通帳を挿入して払戻しを受けた件につき、民法第478条の適用が争われた。最高裁平成15年4月8日 第3小法廷判決(平成14(受)415 預託金返還請求事件)に示されるところでは、非対面、即ち機械払いであることを以って同条文の適用は否定されないとしている。併せて、機械払いによる無権限者への払戻しに民法第478条の適用を主張するには、オンラインシステム全体について、無権限者による払い戻しを排除する様に注意義務を果たす事が必要とした。(金融庁によるまとめ)
- 但し、本件については、預金通帳で機械払いを行える事が約款に明記されていなかった点を指摘し、無権限者による払戻しを排除するべく注意義務を果たしていないとして、その不備を理由に無権限者への弁済を無効としている。
[編集] 偽造カードを用いた不正出金
偽造カードを用いての無権限者による不正払戻しについて、民法第478条の適用を争った事件については、現時点で直接の判例がない。但し、前述の最高裁平成15年4月8日 第3小法廷判決では、現行のオンラインシステムの機械の仕様等を評価する言及が無く、これをもって、現行の磁気カードをベースとしたシステム自体は容認されていると取れる可能性もある。
全銀協が示すカード規定試案第10条第2項には、ATMに挿入されたカードに記録されている磁気情報と、提示された暗証番号が正しいものと認めて機械処理で払戻しを行った場合には、例えそれが偽造カードによるものであったとしても、取引の結果に責任を負わないとしている。
尚、預金者保護法の制定・施行以降は、この約款試案も変更される。
[編集] 課題
本来は、債権の譲渡関係が曖昧で誰に弁済すれば良いかが債務者にとって不明な場合に、債権の準占有者への弁済をもって、債務を解消する規定であると言われる。しかし、戦後は、単に債権の準占有者に弁済すればよく、その素性は問わない、という運用がなされる。この場合、無権限者に対して弁済しても有効として扱われ、真の権限者は落ち度無く債権を失う事態が生じる。さらに昭和40年代より以降は、不正に入手した手形や通帳への出金も弁済と見なして本条文を適用する、定期預金を担保とした貸付けやローン契約に基づく貸付金の払い渡しにも適用するなど、適用の範囲を大きく広げており、批判の意見もある。今後は、非対面、機械処理についても本条文が適用されると考えられ、電子商取引、ネットワークバンキングにおいても過誤払いや金銭上のトラブルの被害を一方的に利用者側が負担する事態になると危惧される。
また、単純な借金では、弱者である債務者を保護する規定であるが、金融機関が利用者に預金を払戻したり貸付金を払い渡す行為に民法第478条を適用するときには力関係が逆転する。即ち、強者である金融機関が債務者となり、弱者である口座開設者が債権者となる。ここへ弱者である債務者を保護する条文を適用するのは不適切であるとの意見もある。
免責の判断基準を専ら金融機関の手続き行為におき、手続きに遺漏がなければ真の預金者への弁済義務を免除する一方で、民法第478条を適用する場合には、真の預金者が被った損害は顧みられない。
[編集] 預金者保護法
2000年代に入ってからスキミングによる偽造カードの作出と、これを用いた不正払戻しが多発し、社会問題化すると預金者保護法が制定された。盗難カードや偽造カードを用いて為された不正払い戻しで個人の口座が損害を被った場合には、民法第478条を適用せず、金融機関が損害を補填する様に規定している。但し、補填の対象となる範囲は現時点で限られている。
[編集] 手形法上の善意支払
為替手形、約束手形の所持人に対し満期において、悪意又は重過失なく(善意・無重過失で)支払った手形債務者は免責される。手形法40条3項に規定がある(約束手形については77条1項3号で準用される)。
悪意・重過失に要求される認識内容の解釈が法学上問題になるが、相手方が手形上の権利を有しないことを知っていた(悪意)、または重過失により知らなかった(重過失)という一般の意味ではなく、さらに限定した意義に解し、保護される範囲を広く解釈されている。昭和44年の最高裁判決によると、手形法40条3項の悪意・重過失の意義は、以下のように解される。
- 悪意とは、「所持人が無権利であることを知っており、かつそのことを知っていながら故意に支払うこと」
- 重過失とは、「通常の調査をすれば容易に無権利であることを知ることができ、かつその立証方法も入手できたのに、調査を怠ったために無権利者に支払ったこと」
これは、証券の所持人が権利を取得する善意取得の場合と異なり、善意支払制度で保護されるのは義務を負担する手形債務者であることが理由とされている。すなわち、手形の債務者は、所持人が無権利者であると主張して手形金の支払を拒んだとしても、無権利であることを立証できなければ手形不渡りとなり、銀行取引停止処分(事実上の倒産状態)となるおそれがあるため、確実に無権利を立証できない限り支払を強制される立場にあるためである。
小切手の場合は、小切手法35条で裏書の連続についてのみ調査義務があるとだけ規定しており、支払免責の規定はない。しかし、通説は同様に手形法40条3項が適用されると解している。