吉野林業
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
吉野林業(よしのりんぎょう)とは、奈良県中南部の吉野川(紀ノ川)上流(主に川上村、東吉野村、黒滝村)の地域で行われている林業のこと。長年、日本全国の林業の模範とされてきた。 吉野杉の産地として有名。
酒樽・樽丸の生産を目的として、植栽本数は1ha当たり8000~10000本という超密植。その後、弱度の間伐を数多く繰り返し、長伐期とする施行で行われてきた。当地方の木材は年輪幅が狭く、完満直通、無節、色目の良さなどから、用材としても高く評価されている。
吉野林業の歴史は古く、足利末期(1500年頃)に造林が川上村で行われた記録がある。一般に吉野の材が多量に搬出されるようになったのは、秀吉が大阪城や伏見城を始め、畿内の城郭建築、神社仏閣の用材としての需要が増加し始めた頃からである。その後、徳川幕府の直領となった。
木材需要の増加に伴う生産供給の増加は、山地の森林資源を減少させ、そこに造林の必要性を生じさせた。吉野地方は山地で耕地に乏しいことから、森林資源を維持培養し、木材の販売で生活するほかなかった。
しかし、その伐出生産の過程でも利益を得ることが少なく、一方村に課せられる貢租は高く、一般村民には資本を蓄積する余裕はなかった。村としては租税の支払に窮し、郷内の有力者に林地を売却、また造林能力のある者にこれを貸し付ける制度を設け、造林を促進させた。しかし、山村の住民にはこの造林地を維持する資力に欠けていた。 そのため元禄年間(1700年)頃、下市・上市及び大和平野方面の商業資本の消費貸付を通じて借地林が発生していった。その中で山守制度が発達し森林管理が行われてきた。
明治以降も造林面積は増加し、戦後の木材ブーム時には隆盛を極めたが、バブル崩壊以降の吉野材の価格は低迷し、また後継者不足などから、現在、大きな岐路に立たされている。