吉田孝頼
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
吉田 孝頼(よしだ たかより、明応3年(1494年) - 永禄6年(1563年))は長宗我部氏の家臣。吉田重俊の兄。
智謀に長け、武勇に優れていたために長宗我部国親に重用され、その妹を妻として娶ったと言われている。
孝頼は智謀面において優れ、1526年、国親の娘を香宗我部氏に嫁がせる約束であったが、それを本山氏に嫁がせてしまった。当然、香宗我部氏は面目丸つぶれで激怒し、国親討伐の軍を興したが、孝頼は出家することで詫びたため、香宗我部氏は本山氏にその軍を向けたという。これは、香宗我部氏と本山氏を争わせ、弱体化を謀る謀略であったと言われている。
また、長宗我部氏の軍制の基本である「一領具足」を考案したとも言われている。