受領
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- 受領(ずりょう)とは、地方官の呼称に関する日本史用語。本稿にて詳述。
- 受領(じゅりょう)とは、物やサービスを受けること。法律用語として受領遅滞等の局面で用いられる。まれに、1.に引きずられ「ずりょう」と読む人があるが、一般に用いられる「じゅりょう」と読み分ける必要性も根拠もない。
受領(ずりょう)とは、国司四等官のうち、現地に赴任して行政責任を負う筆頭者を平安時代以後に呼んだ呼称。
[編集] 概要
通常長官である守(かみ)、及び権守(ごんのかみ)であるが、親王任国の上野国、常陸国、上総国など守、権守が現地赴任しない国では次官の介(すけ)、権介(ごんのすけ)であった。おおよそ四位、五位どまりの下級貴族である諸大夫がこの任に当てられた。彼らの補佐官を務める掾(じょう)、目(さかん)は任用(にんよう)と呼ばれた。
なお、任官されながら実際に任国に赴かず官職に伴う給付だけを受ける国司を遙任と呼ぶ。
[編集] 沿革
9世紀中期~10世紀頃になると、従来の律令制(編戸制・班田制など)による統治に限界が見られるようになり、中央政府は租税収入を確保するため、社会の実情に即した国制改革を進めた。その改革は、地方官(国司)へ租税収取や軍事などの権限を大幅に委譲するというもので、国司は中央へ確実に租税を上納する代わりに、自由かつ強力に国内を支配する権利を得たのである。
国司は、国内の国衙領(公田)を名田へ再編成し、当時台頭していた富豪層へ名田の経営と租税徴収を請け負わせることで、租税を確実に収取するようになっていった。この租税収取システムが軌道に乗ると、国司は現地へ赴任する必要がなくなり、特に上位官である守の多くは遙任するようになった。すると、現地赴任する国司の筆頭者に、様々な責任やそれに伴う権限が集中するようになり、事実上の国衙行政の最高責任者となった。当時、国司交替の際に、後任の国司が、適正な事務引継を受けたことを証明する解由状という文書を前任の国司へ発給する定めとなっており、実際に現地で解由状を受領する国司を「受領」と呼ぶようになった。これが「受領」という呼称の起源である。
受領が強大な権限を得た一方で、補佐官である任用たちは権限を奪われ、受領の私的従者のように使役されるようになる。こうした状況に不満を募らせた任用の中には、現地の有力者である富豪層(田堵層)と結んで受領を襲撃する者も現れた。9世紀末から10世紀初頭にかけて紛争の火種となる任用たちの現地赴任は行われなくなり、受領のみが任国に赴任し、京から伴った私的な側近を目代に任命し、また現地の有力富豪層を在庁官人に任命して国衙の実務に当たるようになった。
受領は、その強大な権限を背景に、莫大な蓄財を行うことも可能であった。事実、受領になると巨額の富を得ることができたため、国司に任命されるために人事権に強い影響を及ぼしうる摂関家へ取り入る者が後を絶たなかったと言われている。また、蓄財によって任国へ根を生やした受領の中には、そのまま任国へ土着した者も多かった。
また10世紀ごろから、国内の公田を名田へ再編成し、田堵に名田経営と租税納入を請け負わせる負名体制へと移行していたが、各地域の実情に合わせて、各名田ごとに異なる税率・税目などが設定されることがあり、これは「先例」として各国司と田堵負名の間で固定化しつつあった。しかしこの先例は、国司・田堵負名の間の個人的な約定であるともいえたため、新たに赴任した受領が前任者の先例を無視して、規定どおりの租税を田堵負名らに賦課することもあった。もっとも、中には私欲のために規定以上の租税賦課を行う受領もいたが、こうして10世紀後期以降、受領と田堵負名層との間に紛争がしばしば見られるようになり、受領の施策に不満の田堵負名層が中央政府へ訴え出ることもあった。これを国司苛政上訴といい、尾張国司藤原元命の事例などが有名である。このような事例を受領層の苛政の表れと評価する意見もあるが、個別の事例を見ると受領が法令どおりに課税した例が圧倒的に多く、むしろ受領の方が遵法的であり、田堵負名層が私益を主張していることが判っている。ここで忘れてはならないのは田堵負名層とは決して零細な農民などではなく、隷属民を多数抱え、莫大な富を蓄積して農業など諸産業を大規模に経営し、多数の私兵すら擁していた富豪百姓だったということである。
説話集にも受領の実相が描かれており、『今昔物語集』の信濃守藤原陳忠の説話(「受領は倒るるところに土をつかめ」という文句が知られている)や、『宇治拾遺物語』の藤原利仁の説話(芥川龍之介の『芋粥』の元となった)などの例が挙げられる。
[編集] 関連項目
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