千葉輔胤
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千葉 輔胤(ちば すけたね・岩橋 輔胤、応永28年(1421年) - 明応元年2月15日(1492年3月13日))は、室町時代中期から戦国時代初期にかけての武将。千葉氏の第21代当主。第19代当主・千葉康胤の庶子で初めは「岩橋」氏を名乗る(但し、岩橋氏を千葉氏の庶流として康胤と輔胤の直接の血縁関係を否定する説も有力である)。官位は従五位下、千葉介。子に孝胤がいる。
ただし、この前後の千葉氏の状況について詳細な史料が存在しないため、輔胤の実像については様々な説がある。
[編集] 千葉氏当主説
1457年、第20代当主・千葉胤持の後を継いで当主となる。ところが同年、東常縁の攻撃を受けて居城から追われ、佐倉に逃れた。1471年、上杉顕定に追われた古河公方足利成氏を庇護し、翌年には成氏を古河に帰還させた。1478年、子の千葉孝胤を派遣して、上杉氏に反抗する長尾景春を助けた。1492年に死去し、後を子の孝胤が継いだ。
[編集] 千葉氏非当主説
印東庄岩橋村(現在の千葉県印旛郡酒々井町岩橋)の領主であった。 それ以前の居城については定かではないが、享徳の乱に乗じ千葉氏宗家を攻め滅ぼした原胤房が、東常縁に追われ逐電した後、文明年間(1469年 - 1486年)に本佐倉城(現在の酒々井町本佐倉)を築城したと伝えられている。
子の孝胤の代に重臣団の後押しを受けて千葉氏当主を自称した。