千葉勝胤
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千葉 勝胤(ちば かつたね、文明3年(1471年) - 享徳5年5月21日(1532年6月24日)は、戦国時代の大名。本佐倉城(現在の千葉県印旛郡酒々井町本佐倉)城主。孝胤の嫡男で昌胤の父。次郎。千葉介。下総権守。
延徳4年(1492年)2月15日、父孝胤が出家したため家督を継ぐ。孝胤(又は祖父の輔胤)が古河公方の支援の下で千葉氏当主を名乗ったため、勝胤も千葉氏当主とされている(後期千葉氏)。1505年の子の昌胤の元服式は盛大に執り行われたことから、下総の諸豪族からは千葉氏当主としての支持を集めていたと思われる。1509年に隠居し、子の昌胤に家督を譲ったが、実権は保持しており、古河公方家の内紛にも関与した。
永正14年(1517年)には僧籍にあった古河公方足利政氏の次男空然が還俗し足利義明を名乗り挙兵、上総武田氏とともに千葉氏の家臣である原氏の小弓城(現在の千葉市中央区南生実町)を制圧し小弓公方を自称した。しかし勝胤は、これに対し特に何か対応策を講じたということは無いようである(隣の臼井城(現在の佐倉市臼井田)の臼井氏が小弓公方側に付いたことを足利高基(義明の兄)に書状で知らせたり、北条氏綱に小弓奪還のための援兵を求めたが拒絶されたとも)。
享徳5年(1532年)5月21日に死去した。一説には戦死したとも。
海隣寺・勝胤寺を建立した。