加賀爪忠澄
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加賀爪忠澄(かがつめ ただすみ 天正14年(1586年) - 寛永18年(1641年))は、加賀爪政尚の子。江戸時代の旗本である。武蔵国高坂館主。姓は加々爪とも表記する。
徳川秀忠の家臣で、関ヶ原の戦いや大阪の役に勲功を立てて従五位下民部小弼となり、5500石を知行して目付・江戸町奉行(北町奉行)・大目付などを歴任し、最終的には9500石に加増された。また、慶長17年(1612年)には、長崎にて来航禁止のマカオ船が着航したのを目撃、船を焼いたとも伝えられる。寛永18年、京橋の大火災の消火中に亡くなり、家督は忠澄の子である加賀爪直澄が継いだ。