前波吉継
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前波 吉継(まえば よしつぐ、天文10年(1541年) - 天正2年1月20日(1574年2月11日))は朝倉氏の家臣。前波景定の次男で前波景当の弟。九郎兵衛尉と称す。後に桂田播磨守長俊と改名。
朝倉義景の側近として活躍したが、元亀3年(1572年)に織田信長と義景が対陣したとき、信長の本陣に駆け込んで降伏した。内応の理由は義景の鷹狩りの際、遅参し下馬せずに前を通ったことで、義景に勘当され謝罪に応じてもらえなかったことを恨んだためとも、吉継の嫡男より以前から織田方に内通していたと訴えがあり、義景の怒りを買っていたためともいう。翌年の朝倉攻めでは織田軍の越前案内役を務め、その功績により朝倉氏滅亡後、信長から越前の守護代に任命され、名前も桂田長俊と改めた。
しかし、義景を裏切った呪いからなのかまもなく失明した。さらに長俊が守護代になったことを妬んだ富田長繁が長俊と徹底して対立し、翌天正2年(1574年)、一向一揆と手を結んだ長繁の軍勢によって殺された。