内田正偏
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内田 正偏(うちだ まさゆき)は、江戸時代の大名。下野鹿沼藩の第3代藩主。
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時代 | 江戸時代中期 | |||
生誕 | 元禄6年(1693年) | |||
死没 | 寛保3年2月29日(1743年3月24日) | |||
別名 | 主膳(通称) | |||
戒名 | 澄雲院殿観道融清大居士 | |||
官位 | 従五位下、信濃守 | |||
藩 | 下野鹿沼藩主 | |||
氏族 | 内田氏 | |||
父母 | 父:内田正勝、母:青山幸完の娘 | |||
妻 | 正室:毛利元次の娘 | |||
子 | 2男1女(内田正親、平野長里、 娘(富田知徳室)) |
1693年、第2代藩主・内田正衆の子・内田正勝の子として生まれる。1699年、祖父の正衆が死去したため、その後を継いで藩主となった。このとき、叔父の内田正長に1500石、同じく叔父の久世正広に500石を分与したため、鹿沼藩は1万3000石となった。
1709年3月7日に叙任する。しかし1724年10月29日、突如狂気により妻女を傷つけてしまったため、幕府よりこの罪を咎められて蟄居処分となり、家督は子の正親が継いで、後に所領も3000石減らされた1万石の上で下総小見川藩に移されてしまったのである。