元好問
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元好問(げんこうもん、1190年-1257年、新暦11月4日)は、金末期の詩人。太原(現在の山西省)出身。字は裕之、号を遺山という。父は元徳明、兄は元好古。
[編集] その生涯
彼は南北朝時代の北魏の孝文帝の末裔であると言われる。また、唐時代の詩人・元結の子孫に当たると言われている。幼くして叔父の元格の養子となり、養父の転勤で山東・河北・山西などの中国各地に住んだといわれる。
元好問は7歳の時に初めて詩作を書いたが、この時に作った詩作を高く評価され、神童とまで称された。その後も詩作を続けて、その名声は金から南宋にまで広まったという。1219年、31歳で金の科挙に合格して尚書省にまで抜擢されたが、金の首都となっていた汴京(開封)がモンゴル帝国軍によって陥落されたとき、捕虜となってしまった。以前に1214年の春3月に兄の元好古が金の将校としてモンゴル軍と大同で戦って、29歳の若さで戦死を遂げている。しかし詩人の名声が高かったことはモンゴルにも知られていたため、また彼を慕っていた同年の耶律楚材の支えもあって、助命されたのである。
1234年、金が完全にモンゴルによって滅ぼされると、南宋の知識人から仕官を勧められたが拒絶して二度と官職には就かなかった。その後は著作に専念し、史料を求めて各地を遍歴するなど滅亡した祖国・金の歴史編纂事業に全力を尽くした。だが、敵国である金の歴史編纂に対してはモンゴルや南宋などからの妨害も多かったという。1252年、彼が63歳の時に、北京で世祖フビライと謁見して、「儒教大宗師」の名誉職を授かったという。結局は彼の歴史編纂は未完のままで、1257年秋9月4日(旧暦)に彼は河北省の真定の鹿泉にて68歳で死去してしまった。
金の詩を撰集した『中州集』は、元好問の傑作として有名である。その題名には金こそが文化の中心だという自負が込められており、詩集としての性格のほか、詩人の伝記もあわせて収録しているため金国史としての役割をも持っている。
[編集] 子女
- 長子元拊(叔俶)
- 次子元振(叔并)
- 三子元息(叔綱)
- 末子元阿辛(早世)