依田康勝
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依田 康勝(よだ やすかつ、天正2年(1574年) - 元和9年(1623年))は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。依田信蕃の次男。依田康国の弟。官位は従五位下、右衛門大夫。名は康貞、康真、もしくは蘆田 康勝(あしだ やすかつ)とも。
幼名は新六郎。はじめ兄の康国と共に武田氏の人質となる。武田氏滅亡後は徳川氏の人質となる。1583年に父が死去すると、家督は兄が継いだが、1586年には徳川氏の家臣として取り立てられ、徳川家康から「康」の一字をもらい受け、松平姓を名乗ることも許された。1590年に兄が早世すると、その後を継ぐ。そして家康が関東に移ると、上野国藤岡城主となった。
しかし1600年、囲碁をしていたときに同僚の小栗三助なる者を喧嘩口論の末に殺害してしまう。これが原因で徳川氏から出奔し、しばらく浪人となった後、結城秀康の家臣となった。1623年に死去したと言われるが、没年には異説もある。
なお、康勝の子孫は蘆田姓を称したが、康勝自身は終生、依田姓で通していた。