今川範叙
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今川範叙(いまがわのりのぶ、文政12年(1829年) - 明治20年(1887年)11月3日)は、高家旗本。高家旗本今川義順の三男。後に国寛、国広を称した。通称は彦三郎。明治維新後は得多郎と称する。官位は従五位下侍従、刑部大輔。妻(もしくは母)は松浦静山の娘。
戦国大名今川義元・今川氏真の末裔である。天保12年(1841年)8月4日父義順の死去により、家督を相続する。嘉永3年(1855年)10月28日高家職に就任し、従五位下侍従・駿河守に叙任する。後に刑部大輔に改める。慶応2年(1866年)12月9日惣髪の許可を得る。慶応4年(1868年)2月25日、高家として唯一若年寄に就任する。同年3月27日新政府の東征軍に対し、徳川家の助命嘆願書を提出する。同年4月5日若年寄を解任される。
同年5月28日元高家旗本ということで中大夫となり、触頭に就任する。明治2年(1869年)2月18日新政府の命令により、神田橋の屋敷を上知する。同年3月24日屋敷の上知にともなって新政府から500両を賜る。明治3年(1870年)11月家臣らに暇を出す。明治4年(1871年)2月病気のために触頭を解任される。明治5年(1872年)6月22日嫡子淑人が死去する。明治8年(1875年)1月28日観音寺の住職から義捐金20円を受け取る。明治20年(1887年)11月3日死去。
一男二女あり。ただし、嫡子今川淑人は早世したため、今川氏直系は断絶した。