人生幸朗・生恵幸子
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人生幸朗・生恵幸子(じんせいこうろう、いくえさちこ)は、戦後に活躍した夫婦漫才のコンビ。本拠地は大阪であったが、テレビ・ラジオを通じて広く全国に知られていた漫才コンビであった。歌詞・世相などにイチャモンをつけるボヤキ漫才は秀逸で、「責任者出て来い!」「出てきはったらどないすんねんな!」「謝ったらええのや」のフレーズと共に一世を風靡した。
[編集] ぼやき漫才
人生幸朗・生恵幸子は「ぼやき漫才」の第一人者として知られている。「ぼやき漫才」は一般的なしゃべくり漫才とはかなり違い、その時代に話題になっている事柄についてとんちんかんな難癖をつけるというものだ。ほかにこのジャンルを得意としたのは人生幸朗の師匠である都家文雄・静代、東文章・こま代などがおり、前者は主に社会風俗、後者は映画を題材にぼやいていた。
人生幸朗・生恵幸子は世相はもちろんのこと、特に当時のヒット曲の歌詞にケチをつけるという面白さで大衆の心を大きく掴んだ。また、このコンビが活躍していた頃、その歌が幸朗にこきおろされれば歌手として一人前という風潮があったようだ。
1982年の幸朗の他界に伴い、この「ぼやき漫才」は後継者がいなかったため急速に廃れてしまうこととなる。
このコンビの漫才の典型的なパターンとしては次の通りである。まず出だしで幸朗が「まぁ皆さん聞いてくださいよ」と聴衆に語りかけ、その当時の世相・ニュースを鋭く切る。
- 「(幸朗)電車の線路のそばに住んでて、警報機の鐘、あのカンカンカンというのがうるそうて寝られんいうて、警報機の線を切った奴がおる。そんなもん切ってどないすんねん。あの警報機の音で近所の住人の安全が守られとる。あのカンカンカンという音を聞いて、ああ空襲やなと思うんやないか」「(幸子)なにーー?あほか」
そして途中で幸子が一曲歌い、その後幸朗が歌謡曲の歌詞を次々に突っ込む。
- 「リンゴは何にも言わないけれどリンゴの気持ちはよく分かる」→「リンゴが物言うか!リンゴが物言うたら果物屋のおっさんがうるそうてかなわんやないか」
- 「昼寝をすれば夜中に眠れないのはどういうわけだ」→「当たり前やないか!そんなら昼寝すな!」
- 「私のかわいいところどこでしょうか」→「己で勝手に探さんかい」
- 「川は流れる 橋の下」→「当たり前や。橋の上流れとったら水害やがな」
- 「一生懸命育てた鳥でさえ窓を開けたら飛んでいく」→「当たり前やないか。鳥かて羽があんねん、飛んでいくよ。飛んで嫌なら金魚飼うとけ!」
- 「波よ教えておくれ 私の明日はどこにある」→「長生きせえよ。波が物言うか!」
- 「ときめくハートがその証拠人生が今キラキラと近づいてくる」→「何ぬかしとんねん。なんでわしがお前に近づいていかなあかん!馬鹿にすなぁ!」「人生が違うの!あほか!」
- 「カリッと音がするほど小指を噛んで痛いでしょう 痛いでしょう」→「当たり前やないか!誰でも小指噛んだら痛いわ!」
- 「あなたが噛んだ小指が痛い」→「誰が噛んでも痛いわ!」
- 「海は振り向かない」→「当たり前や!どうして海が振り向くねん!お前おちょくってんのか!」
最後は最高潮に達した幸朗を幸子が一喝する。「(幸子)いつまでぼやいてんだ、この泥亀!」「(幸朗)かあちゃん堪忍!」「(幸子)何がかあちゃんや!」「(幸朗)ごめんちゃい!」 そして幸朗の締めくくりの演説をもってぼやき講座終了となる。「(幸朗)我侭勝手なことばかり申し上げまして、お叱りの言葉もございましょうが、これは私の本心ではなく、相方生恵幸子の書いた筋書きでございます」「(幸子)嘘つけー、自分勝手にしゃっべてるんやないかぁ」
幸子のいう「泥亀!」とは、漫才終了の30秒前であることを幸朗に知らせるためのフレーズであったといわれる。テレビ番組の収録などの際、ADが客席の最前列で「終了何秒前」というカンニングペーパーを出すが、近眼だった幸朗は、舞台の上からカンペの文字がよく見えなかったそうである。そこで相方の幸子が、カンペが出されると同時に「泥亀!」というフレーズを入れ、幸朗に終了30秒前の合図をしていたそうだ。そして、幸朗はその合図に合わせてオチを入れ、持ち時間ぴったりで漫才を終えた。
ぼやき漫才ではないが、大木こだま・ひびきが、似たようなパターンのネタを展開している。
- (ひびき)「いやぁ忙しくて猫の手も借りたいですわ」(こだま)「猫に手はあらへん、アレは前足や!」
- (ひびき)「恥ずかしくて顔から火が出ました」(こだま)「顔から火なんてどないして出すねん!見たことないわ、見せてみい!!」
…など。
[編集] メンバー
人生幸朗(本名:比田孝三郎, 1907年11月2日 - 1982年(昭和57年)3月4日)は、夫。ボケ担当。大阪府出身。20歳の時の芝居一座に入門。24歳の時に荒川芳丸に入門し、荒川芳蔵を名乗る。後に、ボヤキ漫才の都家文雄に入門。この時に、ボヤキ漫才のスタイルが整った。1940年に吉本興業に入社。この時に、高田田鶴子とコンビを組む。第二次世界大戦中は、満州などでも興行を行った。
戦後、1947年に「人生航路」と名乗り、1954年に庭野千草(後の生恵幸子)と組む。1955年に人生幸朗と名乗る。長年売れなかったが、この頃より人気が出始める。またこの頃より、ライフワークとでも言うべき各地の矯正施設に慰問を始める。この慰問は、警察・自治体などから多大に評価され、後発の芸人たちの模範となった。テレビや舞台などでも活躍し、人気を得ていたが、1982年にこの世を去る。享年74。
常に牛乳瓶の底のような分厚い眼鏡をかけ、直立不動で、熱が入ってくると凄い迫力と説得力を持って聴衆に語りかけるその漫才は、今も根強いファンを持つ。またその漫才からも分かるとおり極めて誠実な人柄で後輩など多くの人々から慕われ、「人生さん」「人生の師匠」と珍しく屋号亭号で呼ばれていた。
生恵幸子(1923年9月25日 - )は、妻。ツッコミ担当。大阪府出身。夫よりも16歳も若く、美しい容姿を持つ幸子は、その威勢のよい清々しいツッコミと漫才の途中に挿入するお世辞にも上手いとは言えない歌で、夫と同様強い存在感を示していた。また近視が強かった人生幸朗に時間配分を知らせていたりなど、このコンビを陰ながらの支えてきた。 夫の死後は芸能活動はなく、メディアへの露出はほとんどない。
夫婦そろって「人生ぼやき節」というコミックソングもある。それは幸子が歌い、後から歌詞を幸朗がけなすというお馴染みのスタイルである。
[編集] 補足
お笑いタレントの大平サブローは、人生幸朗のものまねでも有名。人生幸朗の生前の映像を使用したテレビCMで人生幸朗の声の吹き替えをサブローが担当し、CMを見た生恵幸子から「お父ちゃんが帰ってきたみたいや」と絶賛された。