二本松義氏
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二本松 義氏(にほんまつ よしうじ、享禄3年(1530年) - 天文16年(1547年))は二本松畠山氏第十三代当主。第十一代当主二本松晴国の次男。二本松家泰の弟。信濃守。重義。仮名七郎。法名宗阿。
義氏の「義」の字は将軍・足利義晴の偏諱だと思われる。将軍家の通字である「義」の字を与えられたことは、それだけ家格を認められていたことになる。奥羽において、「義」の字を与えられたのは、奥州探題の大崎氏と羽州探題の最上氏だけであり、伊達氏ですらも「義」の字を認められていない。戦国期でも幕府からその家格を認められたと言うことは、そこそこの勢力があったと考えられる。
1546年、兄・第十二代当主家泰の病死で家督を継ぐ。義氏が当主の頃、伊達氏は稙宗と晴宗父子の仲が悪く畠山氏の家中でも伊達氏に連動して両派にわかれて敵対した天文の乱が起こっていた。義氏は稙宗派で家中を統一しようと、1542(天文11)年9月13日、田村隆顕、塩松尚義らの援助を得て家中の晴宗派の家臣を二本松城から追放した。さらに14日には八丁目城主堀越能登が晴宗派の遊佐美作守の城を攻略し、家中が稙宗派に統一された。しかし、それでも家中は落ちつかず、義氏は畠山庶流の本宮宗頼を打ち滅ぼした。また石橋久義が晴宗方に寝返ったので、義氏はこれも攻めるなど積極的な家中統制を行っている。しかしこのことは、結果として伊達家の内乱がいかに深く畠山家中にまで影響するかを物語る資料でもある。この頃にはすでに、伊達家に二本松畠山家の命運が左右されていたのである。