久米島守備隊住民虐殺事件
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久米島守備隊住民虐殺事件(くめじましゅびたいじゅうみんぎゃくさつじけん)とは沖縄戦の最中に発生した悲劇であるが、他の沖縄の島々で行われたと日本軍による住民の集団自決の強要(こちらは自由主義史観論者などがら真実ではないと主張されている)とは違い、本来ならば住民を守るべき日本軍久米島守備隊がアメリカ軍に拉致された住民3人をスパイとして処刑しただけでなく、その家族までもスパイとして虐殺した事件である。しかもその時の責任者である守備隊のトップであった鹿山兵曹長自身が、後に虐殺の事実を認める一方で、大日本帝国軍人として正当な行為であったと公言したため物議をかもした事件である。
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[編集] 事件の概要
久米島は現在ではプロ野球のキャンプが行われるなどリゾート地として有名であるが、沖縄戦末期には悲劇が発生した。沖縄戦も終盤にさしかかった1945年6月に、アメリカ軍がそれまで放置していた久米島を攻略するため、上陸作戦の2週間前に工作部隊が上陸し情報収集のため住民の男性2名を拉致した。この男性らの情報から、島にはわずか27名の通信兵などの守備隊しか駐留していないことを知ったアメリカ軍は、上陸部隊の兵員を1000人弱(正確には966人)に減らしたという。
拉致された住民は6月26日、アメリカ軍の上陸時に一緒に解放されたが、守備隊の鹿山正兵曹長は拉致被害者を裏切り者として断罪し”アメリカ軍のスパイ”としてまず、6月27日のアメリカ軍上陸時に、自宅から避難壕へ逃げる際に拉致されて山中の兵曹長の分遣隊へ降伏勧告状をもっていくように命令された郵便局員を銃殺、6月29日には工作部隊によって拉致されていた区長と区警防団長のほか2家族9人を殺害し、その遺体を家屋ごと焼いた(一説では生き殺したともいう)。また粛清はその後も続き、アメリカ軍からの投降を呼びかけるビラを持っていたり、投降しようとした者についても”スパイ”と決め付けて処刑された。また日本が無条件全面降伏した8月15日以降も続き8月20日(9月説もあり)にも処刑が行われたという。
一方、守備隊であるが住民の前で処刑を行い、山にこもって戦うように住民に指示し、従わないものは殺害すると警告した。しかしながら戦況はアメリカ軍有利であることが明白になると全面的に投降した。最終的に守備隊が殺害した住民は21人(一説では29人)であり、そのなかにはなんら罪のない子供も含まれていた。そのため住民は侵攻してくるアメリカ軍よりも友軍であるはずの日本軍兵士におびえていたと言う。また守備隊の中にも命令に服従しなかったとして3人が切られたという。
[編集] 戦後
守備隊であるが、山にこもって玉砕することなく、9月4日にはアメリカ軍に投降し、沖縄本島からの脱出者なども含め41人が沖縄本島に移送された。このように孤立した戦場の中で異常な事をしたことに対する軍規違反になりかねないこのような住民虐殺事件については罪を問われることはなかった。また地元でも事件の遺族や当時を知る住民は「もう思い出したくない」と口を閉ざしたままであった。復員した鹿内であるが、事件から27年後に沖縄本土復帰を控えた1972年4月2日号のサンデー毎日にインタビュー記事が掲載され、彼は事件については弁明はしないとしつつ「私は日本軍人として、最高指揮官として、当時の処置に間違いがあったとは、ぜんぜん思っていない」として、平和な時代になって罪であると言われるのはしかたないがとしつつ「悪いことをしたと考えていないから、良心の呵責もない。ワシは日本軍人としての誇りを持っている」と公言した。そのため久米島の住民から怒りをかったという。このように彼の中では日本軍が保護すべき日本国民であっても自己が裏切り者であると思えば、家族も含め皆殺しにしても正当な行為にしようとする意識があったが、実際のところスパイ容疑で家族も含めて処刑してもいいという権限が兵曹長にあったはずもなく、正当化することができない勝手な思い込みといえる。
[編集] そのほか
久米島を占領したアメリカ軍であるが、島内の家屋の3分の1弱しか焼失しておらず生活基盤が破壊されたわけではないとして、沖縄本島の避難民キャンプとは違い、援助物資をアメリカ軍の労務に対して支払われた賃金と引き換えに住民に渡したという。その時の賃金として支払われた代用紙幣が謄写版(いわゆるガリ版刷り)で印刷された久米島紙幣といわれる引換券であった。