下間仲孝
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下間仲孝(しもつまなかたか、天文20年(1551年) - 元和2年5月15日(1616年6月28日))は日本の戦国時代末期から江戸時代初期の武将、能楽師。本願寺氏の坊官。下間頼照の子。母は定専坊了宗の女。妻は下間丹後守光頼の女。
別名下間少進(しもつましょうじん)。仲之(ちゅうし)、頼之、仲康ともいう。幼名千代寿、法名性乗、能の芸名は素周である。
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[編集] 戦国武将としての側面
織田信長との石山戦争で十年にわたって各地に転戦して門徒を指導した。しかし1580年、本願寺が信長と勅命講和を結んだとき、講和条約署名3名のひとりとなる。その後は本願寺顕如に従って講和が結ばれた後も織田軍に抵抗する各地の一向門徒の収拾に奔走した。顕如の死後は准如に従った。だが、関ヶ原の戦い後は嫡男仲世が石田三成の友人だった事から准如(西本願寺)の西軍加担疑惑が持ち上がり、仲世を廃嫡して仲孝自身も謹慎している。
[編集] 能楽師としての側面
仲孝は能をよくし、能楽史上では下間少進として知られている。よってこの項では少進とよぶ。
少進は若年から金春大夫笈蓮の元で修行し、金春流の秘伝はすべて伝承、当時のアマチュア能「手猿楽」の第一人者として著名であった。金春流ではとだえていた「関寺小町」を復曲上演するなど、プロをもしのぐ活躍をした。
天正16年(1588年)から『能之留帳(のうのとめちょう)』と題する演能記録を残しており、この記録によって共演者や観客が詳細にわかる。それによると、少進は豊臣秀次の能楽指南役をつとめ、豊臣秀吉や徳川家康の前でも能を披露している。元和元年(1615年)には禁裏(天皇の御所)でも能を演じ、「当時の上手」であるという記録が、『義演准后日記』にみえる。
家康の四男松平忠吉に能の秘伝書『童舞抄』を伝授するなど、戦国乱世にあって能をもって下間家と本願寺の存続をはかったという評価もなされている。少進の残した『能之留帳』などの記録や『笈蓮江問日記』『少進聞書』といった聞き書き、『童舞抄』『舞台之図』などの伝書は、能楽史のうえからも貴重なものとされている。
[編集] 参考文献
- 『下間少進集』 西野春雄、片桐登校訂 法政大学能楽研究所編「能楽資料集成 第1巻、第3巻、第6巻」 わんや書店(1973年-1976年)