ヴェルフ家
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ヴェルフ家(Welfen)は、中世の神聖ローマ帝国で皇帝位を争った有力なドイツの大諸侯。ザリエル朝、ホーエンシュタウフェン朝と帝位を争ったが、皇帝となったのはオットー4世のみだった。その一族の中から、ハノーファー選帝侯が出て、この血統はイギリスのハノーヴァー朝となり現在のイギリス王家に伝わっている。ヴェルフェン家とも言う。
元々は9世紀から続くロンバルディアのエステ家の出身であり(このためヴェルフ・エステ家ともいう)、11世紀にヴェルフ4世がバイエルン公となってドイツに基盤を築いた。ヴェルフ5世は神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世と対立し、叙任権闘争においてローマ教皇と結び教皇派のトスカーナ伯マティルデと結婚したため、教皇派はヴェルフ(ゲルフ)と呼ばれるようになる。
ザリエル朝が断絶するとバイエルン公ハインリヒ10世(尊大公)は、ホーエンシュタウフェン家のコンラート3世と帝位を争った。1140年のヴァインスベルクの戦いの「掛け声」からヴェルフ派をヴェルフ、ホーエンシュタウフェン派をウィーベリンと呼ぶようになり、これがイタリアに伝わり教皇派と皇帝派(ゲルフ対ギベリン)となる。
ハインリッヒ獅子公(1129 - 1195)は、ザクセン公、バイエルン公を兼ね、舅のイングランド王ヘンリー2世と結び大勢力を誇ったが、フリードリヒ1世との争いに敗れノルマンディーに亡命している。
ハインリッヒ獅子公の息子オットー4世は皇帝ハインリヒ6世の死後、その弟のフィリップと皇帝位を争った。当初、形勢は不利だったが、フィリップが暗殺されたため念願の皇帝となった。しかし、ローマ教皇と対立し(この時はヴェルフ派が皇帝派となり、ホーエンシュタウフェン派が教皇派となっている)破門され、1215年のブービーヌの戦いに敗れ、フリードリヒ2世に皇帝位を奪われた。
オットー4世の弟の家系はブラウンシュヴァイク=リューネブルク家として続き、1692年にその分枝の1つであるハノーファー公が選帝侯となった。ハノーファー選帝侯は1714年にイギリス王位を獲得してハノーヴァー朝を開き、その血統は現在まで続いている。ハノーファー公国は1814年にハノーファー王国となり、1837年にヴィクトリア女王の即位により同君連合を解消した。ハノーファー王国は1866年にプロイセン王国に併合されたが、最後のハノーファー王ゲオルク5世にはブラウンシュヴァイク=リューネブルク公の称号が与えられ、その家系は現在まで続いている。