ヴィジャヤナガル朝
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ヴィジャヤナガル王国(-おうこく)(ヴィジャヤナガル朝)(-ちょう)(Vijayanagar)は、カルナータカ州南部及びアーンドラ・プラデーシュ州南部、言い換えれば、トゥンガバドラー川及びクリシュナ川南岸以南からコモリン岬に至る地域を1336年から1649年に滅ぼされるまで支配したヒンドゥー王国。サンガマ朝(1336~1486)、サールヴァ朝(1486~1505)、トゥルヴァ朝(1505~70)、アーラヴィードゥ朝(1570~1649)の4つの王朝が交替してヴィジャヤナガルに首都を置いた(ただし、アーラヴィードゥ朝は、ペヌコンダに首都をおいたために除く場合もある)ために総称的に首都名を王国ないし王朝の名称に冠している。
[編集] サンガマ朝
最初の王朝、サンガマ朝の建国者は、ハリハラとブッカの兄弟で、王朝名は彼らの父親の名からとっている。伝説によると、この兄弟はアーンドラ・プラデーシュ州ワランガルのカーカティヤ朝の封建領主(マイソールのホイサラ朝封臣説もある)だったが、ハルジー朝の遠征後、カルナータカ州南部のカンピリー王国に身を寄せていた。しかし、トゥグルク朝の反乱者であるハハーウッディーン=グルシャースプがカンピリー王国に逃げ込んだため、カンピリー王国は、スルタン、ムハンマド=ビン=トゥグルクの攻撃を受け滅亡した。兄弟は、その際イスラム教に改宗させられたが、その後、失政や内紛によってトゥグルク朝の南インドに対する統制力が弱まると、再びヒンドゥー教に改宗しなおして、カルナータカ州南部、トゥンガバドラー川南岸にヴィジャヤナガル(現ハンピ)に都を建設し、1336年、ハリハラが即位した。当初、サンガマ朝は、ハリハラ、ブッカをはじめとする5兄弟と親族の共同統治国家であった。ブッカは兄を継いで王となり、1356年から1377年まで統治した。その間、息子のクマーラ=カンパナを遣わし、マドライにいたスルタンとの抗争に打ち勝ってこれを滅ぼした。一方で、北側にバフマニー朝が1347年に建国され、トゥンガバトラー川とクリシュナ川の両流域に挟まれたいわゆるライチュール地方の支配権、すなわち交易利権をめぐって両王朝は抗争することになった。しかし、この抗争では、両国は決定的な勝利をおさめることができず、無差別虐殺や子どもの奴隷売買が行なわれたり、経済的にも疲弊したため、前述のような残虐な行為は行なわない、両国の国境は、当初のままとするという協定が結ばれた。次のハリハラ2世(位1377~1404)のとき、クリシュナ及びゴーダヴァリー両下流域のレッディ王国の大部分を併合したものの、バフマニー朝とワランガルの君主の同盟のため、それ以上北方へ進出できなかった。しかし、マラバール海岸地方で、ゴアをバフマニー朝から奪うことに成功した。またスリランカ北方にも遠征軍を送っている。デーヴァラーヤ1世(位1404~22)のとき、バフマニー朝スルタン、フィーローズ=シャー=バフマニーとの間でトゥンガバトラー流域をめぐる抗争に破れ、多額の賠償金と真珠や象を支払わなければならなかった。そして自分の娘をフィーローズと結婚させることにし、結婚式には、自ら首都ヴィジャヤナガルから出迎えた。しかし、1419年、レッディ王国内での内紛を契機にワランガルの君主に同盟を呼びかけて成功し、フィーローズに決定的な敗北を与え、ワランガルとレッディ王国を分割してクリシュナ川河口までを併合した。一方、内政的には、水不足解消のためにトゥンガバトラー川にダムを建設して都に水路を引いた。この水路のおかげで、税収が増加し、国庫を潤わせることとなった。また潅漑農耕のためにハリダ川にもダム建設を行なった。1422年、デーヴァラーヤ2世(位1422~46)が即位すると、軍制改革を推し進めた。父王が採用した10000人に加えてさらに2000人のムスリムを加えて、ヒンドゥーの兵や将校に弓術を教えさせた。ペルシャ出身の歴史家フィリシュタによるとデーヴァラーヤ2世は、8万の騎兵、20万の歩兵、弓術に優れた6万人のヒンドゥー兵を集めたという。バフマニー軍は、丈夫な馬を持ち優れた弓兵の大部隊をもっていることにならい、またその対抗策であった。しかし、1443年のライチュール地方への遠征で、バフマニー朝と3回の激戦を戦ったが両国共に大きな戦果を収められず、国境線はそのまま維持された。ペルシャ人旅行家、アブドル=ラッザークの残した当時の記録によると、ヴィジャヤナガル王は、東はオリッサ地方から、南はセイロン、西はマラバールにまで及ぶ版図と300の港をもち、それぞれがカリカットに匹敵するものだ、またこの土地の大部分はよく耕されていて、たいへん肥沃だ、この国の軍隊は110万人におよぶとしている。少々誇張があるが、この地を訪れた旅行家たちが一致して述べているのは、ヴィジャヤナガル王国の国内は、都市でも農村でも人口が密集していたということである。
[編集] サールヴァ朝とトルヴァ朝
デーヴァラーヤ2世の後は、凡庸な君主が続き、また王位継承争いで国内が混乱した。一方でバフマニー朝は有能な宰相マフムード=ガーワーンを迎えて事実上の全盛期となった。ヴィジャヤナガル王国はカーンチプラムまで攻め込まれ、ゴアを奪回された。またオリッサの新興勢力ガジャパティのカピレーシュヴァラが攻め込んできた。この危機を救ったのは、 サールヴァ家のナラシムハであった。ナラシムハは、トルヴァ家のイーシュヴァラ=ナーヤカ、ナラサ=ナーヤカ父子に助けられてガジャパティの勢力を撃退して、1486年に王となり、サンガマ朝は滅んだ。しかし、彼が1491年に没すると、ナラサ=ナーヤカが摂政となって、ライチュール地方の奪回や南方への遠征をおこない、権勢を振るった。ナラサ=ナーヤカの子、ヴィーラ=ナラシムハ(位1505~09)は、サールヴァ家から王位を奪って、即位し、トルヴァ朝を創始した。しかし、その治世は短く弟のクリシュナ=デーヴァラーヤ(位1509~29)が継ぐごとになる。クリシュナ=デーヴァラーヤは、ヴィジャヤナガル王国の歴代君主中最も偉大な君主とされ、遠征を繰り返し版図を拡大する一方で、文芸を保護し、旅行者から国民の幸せを願う君主という最大級の賛辞を送られる名君であった。
しかし、その晩年には、宮廷の内紛とそれにつけこんでビジャープル王国軍の侵入があり、ライチュール地方が再び奪われた。クリシュナデーヴァラーヤを継いで弟のアチュタデーヴァラーヤが即位(位1529~42)すると、宰相サールヴァ=ナラシンガラーヤ=ダンダナーヤカが起こした反乱を鎮圧するとともに、ライチュール地方を取り戻した。しかし、治世の晩年には、兄王の娘婿にあたるアーラヴィードゥ家のラーマラージャに実権を奪われた。アチュタデーヴァラーヤが亡くなるとクリシュナデーヴァラーヤやアチュタデーヴァラーヤの幼少な息子たちのみが残され、宮廷内で王位の継承をめぐって激しい争いが起こったが、末弟のランガの子、サダーシヴァ(位1543~70)が王位につけられた。しかし、王朝の実権は、摂政になったラーマラージャとその弟ティルマラに握られていた。ラーマラージャの基本政策は、国内を安定させるとともにバフマニー朝分裂後の北方のムスリム5王国を互いに抗争させて弱体化させるというものであり、まずポルトガル人との貿易協定でビジャープルへの馬の供給を止めて、ビジャープルを打ち破り、次にビジャープルに同盟を持ちかけてゴールコンダとアフマドナガルを打ち破った。しかし、ムスリム5王国もいいように利用されていることに気づき始めて、ついにビジャープル、ゴールコンダ、アフマドナガルの三国は同盟を結び、1565年、クリシュナ川の北方、ビジャープルの東方のターリコータ(ラークシャシ=タンガティ)でヴィジャヤナガル軍を迎え撃ってこれを撃破し、ラーマラージャ自身も捕らえられて処刑された。またヴィジャヤナガルのヒンドゥー兵10万人が殺されたと伝えられる。首都ヴィジャヤナガルも陥落して破壊され、廃墟と化した。ラーマラージャの弟ティルマラは、サダーシヴァを擁してヴィジャヤナガルの南東100数十kmのペヌコンダに遷ってそこを首都として統治を続けた。1570年、ティルマラは、サダーシヴァを廃位して、自ら王位につき、アーラヴィードゥ朝を開いた。
[編集] 参考文献
- 辛島昇「ヴィジャヤナガルの政治と社会」『岩波講座世界歴史13』(中世7)所収,1971年
- サティーシュ・チャンドラ/小名康之・長島弘(訳)『中世インドの歴史』,山川出版社,1999年 ISBN 463467260X
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