ロベルト・デュラン
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ロベルト・デュラン(Roberto Duran、1951年6月16日 - )は、プロボクサー。パナマ、エンチョリーヨ出身。ニックネームは「石の拳(コブシ)」。
キャリア初期の野性味溢れるボクシングと後期の技巧派スタイルで50歳になるまで戦い続けた一方、二階級飛び越えればパンチの威力が完全に違い、三階級では挑戦自体が無謀であった世界観を平然と破った怪物ボクサー。その対戦相手は中量級の歴史における最強の王者揃いであり、観戦を渇望した観客たちにより興行やテレビの世界も変革されていった。全時代、全階級(ALL TIME P4P)最強に推す者も多く、デュランは間違いなくモハメド・アリと並ぶ世界を動かした中南米を代表するボクサーである。 2006年12月7日、アメリカ、ニューヨーク州カナストータにある「国際ボクシング名誉の殿堂博物館(IBHOF)」に名誉の殿堂入りを果たしている。
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[編集] 来歴
[編集] キャリア初期―ライト級王者時代
1968年プロデビュー。後のフェザー級王者エルネスト・マルセルや世界S・フェザー級王座を6度防衛を果たした小林弘をKOで下すなど連戦連勝。そして1972年6月、無敗のままWBAライト級王者ケン・ブキャナンに挑戦する。
華麗なテクニックを誇り、王座安泰と言われていた技巧派王者を、デュランは初回からダウンを奪うなどして終始攻勢。そして13回、ボディブローでKO。ブキャナン側からローブローの抗議が上がったがデュランが新王者となった。
王座に就いてからのデュランは怪物的な強さを発揮する。「石のコブシ」と形容された強打で、後のWBC王者ガッツ石松、プロ初の敗北を喫した宿敵エステバン・デ・ヘスス、タフで鳴らしたレイ・ランプキン等の実力者を相手に、10連続KOを含む11度の防衛を達成。その間もノンタイトル戦も頻繁にこなし、まさに戦うチャンピオンだった。
1978年1月、12度目の防衛戦でWBC王者エステバン・デ・ヘススとのタイトル統一戦を迎える。1勝1敗で迎えた因縁の対決だった。王者同士にふさわしいハイレベルな熱戦となったが、12回、デュランの見事な右カウンターでデ・ヘススをKO。タイトル統一を果たした。
強豪達をことごとく退けた桁外れの強さ、そしてデ・ヘススという好敵手と繰り広げた3度の激戦。 今や70年代に留まらず、ライト級史上最強はデュランとの評価が定着している。
[編集] 栄光と挫折―波乱の80年代
ライト級タイトルを返上したデュランは1980年6月、2階級上のウェルター級王者シュガー・レイ・レナードに挑戦する。レナードのスピードが勝ると予想されていたが、デュランは天性のボクシングセンスを発揮。2回に右クロスを決めてレナードをぐらつかせ、その後もロープに詰めて接近戦を挑む。レナードの速いパンチにも機敏に反応し15回を戦いきった。そして2-1の僅差ながら予想外の判定勝ちを収め、見事2階級制覇を達成する。
しかし、5ヵ月後の再戦では徹底的なヒット・アンド・アウェイ戦法を取るレナードにフラストレーションが溜まり、8回に突然の試合放棄。このとき放った言葉と共に「ノー・マス(もうたくさんだ)」事件として有名になる。また、この試合をきっかけにデュランのボクシング人生は波乱を迎えた。
1982年1月、ウィルフレド・ベニテスのWBC S・ウェルター級タイトルに挑むも判定負け。ノンタイトル戦でも、格下と見られていたカークランド・ラインにも判定で破れ、完全に下り坂となった。
1983年6月、デビー・ムーアの持つWBA S・ウェルター級タイトルに挑んだ時もデュラン不利と見られていた。 しかし、デュランは初回から試合のペースを握る。ムーアのパンチを外し、ボディを執拗に攻めた。7回、疲れの見えるムーアに見事な右クロスを決めてダウンを奪うと、続く8回、容赦ない追撃を加えた。そしてタオル投入。劇的なTKO勝ちで史上7人目の3階級制覇を果たすと共に、完全復活をアピールした。
勢いに乗るデュランは同年11月、ミドル級王者マービン・ハグラーに挑む。それまでの防衛戦を全てKOで飾り、無人の野を走っていたハグラーだけに無謀な挑戦と思われたが、右を好打するなど互角の戦いを演じる。しかし14回以降スタミナをロス。ハグラーの的確なパンチを浴び、判定にもつれ込んだものの敗北。
1984年6月にはWBC S・ウェルター級王者トーマス・ハーンズと対戦。しかし、ハーンズは長いリーチとスピード、パワーで圧倒。デュランは初回にいきなり2度のダウンを奪われ、続く2回、強烈な右クロスをもらい失神KO負けを喫した。その余りにも豪快な倒されっぷりに人々はこの試合を後に「ラスベガス恐怖の一撃」と名づけた。
無冠となったデュランだがその後も戦い続け、1989年2月、WBC世界ミドル級王者アイラン・バークレーに挑む。バークレーは、トーマス・ハーンズを番狂わせの3回TKOでタイトル獲得したタフなファイター。対するデュランは38歳となっていた。しかし、自分より若くパワーのあるバークレーのパンチを天性の防御勘で外しきり、11回には見事なワンツーでダウンを奪う。判定は割れたが、デュランの勝ちを支持。若い頃とは一味違う技巧派の面を発揮し、4階級目のタイトルを獲得した。
余談だが、デュランはライト級王者になる前はスーパーフェザー級で世界1位にランキングされていた。また、ライト級王者になってからのノンタイトル戦では、一階級上のS・ライト級世界ランカーとも頻繁にグローブを交え、負けることは無かった。計画的に事を進めていれば、6階級制覇も可能だったかもしれない。
[編集] キャリア後期
バークレー戦以降、デュランはタイトルと無縁となった。1989年12月、シュガー・レイ・レナードとの再戦では判定負け。 しかし、その後もヘクター・カマチョやビニー・パジェンサといった元世界王者、中堅どころの選手と戦い続けた。1998年8月には47歳にしてウィリアム・ショッピーの持つWBAミドル級タイトルに挑戦する。しかし、棄権による3回TKO負けを喫した。その後も戦い続けたデュランだったが、交通事故で重傷を負い、50歳を超えて遂に引退した。 船木誠勝と異種格闘技戦も行った。
[編集] 略歴
- 1968年 プロデビュー。
- 1972年 ケン・ブキャナンを13回KOに下し、WBA世界ライト級タイトル獲得。
- 1978年 WBC王者エステバン・デ・ヘススを12回TKOに下し、ライト級タイトル統一。
- 1980年 シュガー・レイ・レナードを15回判定で下し、WBC世界ウェルター級タイトル獲得。
しかし、5ヵ月後の再戦で試合放棄による8回TKO負け。
- 1983年 デビー・ムーアを8回TKOに下し、WBA世界S・ウェルター級タイトル獲得。
同年11月、マービン・ハグラーの持つミドル級タイトルに挑むも15回判定負け。
- 1984年 WBC S・ウェルター級王者トーマス・ハーンズに挑むも2回TKO負け。
- 1989年 アイラン・バークレーを12回判定で下し、WBC世界ミドル級タイトル獲得。
- 戦績 120戦104勝69KO16敗