モヨロ貝塚
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モヨロ貝塚(モヨロかいづか)は、北海道網走市北1条東から北3条東にかけてあるオホーツク文化の代表的遺跡である。網走川河口左岸、オホーツク海のそばに位置する。国の史跡。最寄貝塚とも書く。
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[編集] 概要
モヨロ貝塚は、網走川河口の左岸(北岸)にあり、編年的に日本の縄文時代晩期に並行する時期から住居が作られ、続縄文時代が続いた。さらにオホーツク文化に変わっても集落が営まれた。住居は竪穴式で、死者は貝塚に埋葬された。
オホーツク文化の大型住居には、ヒグマなどの骨が丁寧に並べられていた。貝塚からは屈葬された人骨が多数見つかった。多数出土した物には骨角器、土器、石器があり、また本州で制作されたとみられる鉄の刀や鉾、大陸から持ち込まれたとみられる青銅の鈴などがあった。牙で熊など動物をかたどった像があり、中には優れた造形の牙製女性像もある。道具類の比重から、海獣の狩猟に重点があったと推測されている。
[編集] 発掘史
1913年(大正2年)に網走を訪れたアマチュアの考古学研究者米村喜男衛(よねむらきおえ)が発見した。発見した土器から縄文文化ともアイヌ文化とも異なる文化の存在を知った米村は、網走に住むことを決めて米村理髪店を開業し、傍らで遺跡の調査と研究に携わった。
大正時代には、この遺跡の文化が北方的な独特のものであるということ以上はわからなかった。1933年(昭和8年)に、オホーツク海の南沿岸に広がるオホーツク沿岸文化が、同時代の北海道の文化と別個のものとみなされるようになった。今日いうオホーツク文化である。
遺物を保存・展示するために、1936年(昭和11年)に網走に北見郷土館が建てられた。最寄貝塚は同年12月16日に国の史跡に指定された。戦時中に海軍施設建設のため遺跡の一部が破壊され、緊急発掘を受けた。史跡指定時28軒確認されていた住居址は、このため現在には約20に減った。戦後、1947年(昭和22年)から1951年(昭和26年)にかけて大規模な調査が実施された。
[編集] 現況
遺跡はモヨロ貝塚館を中心にした公園として整備されている。北見郷土館の後進である網走郷土博物館にも展示がある。2003年(平成15年)と2004年(平成16年)に発掘が行われ、土製のクマ像など多数の遺物が見つかった。
[編集] 参考文献
- 米村衛『北辺の海の民 モヨロ貝塚』、新泉社、2004年、ISBN 4-7877-0431-1。
[編集] 外部リンク
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