マンテル大尉事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
マンテル大尉事件(Mantell Incident)は、1948年1月8日(現地時間では1月7日の午後)にアメリカ合衆国のケンタッキー州にて発生したUFO(未確認飛行物体)目撃事件。
目次 |
[編集] 事件の概要
[編集] 銀色の未確認飛行物体
1月7日の朝より続発していたゴドマン市民とケンタッキー州警察からの未確認飛行物体の目撃通報により、アメリカ合衆国空軍のゴドマン基地は、同基地に所属する戦闘機、ノースアメリカンP-51で付近を飛行中のトーマス・F・マンテル大尉率いる4機に対して未確認飛行物体の追跡を指令した。また、これと前後して、直径100メートル近くの大きさで、上部が点滅している銀色の未確認飛行物体がゴドマン基地上空に飛来し、基地管制塔などからも観測された。
[編集] 墜落
この後他の3機は、燃料不足のため追跡を断念したが、追跡を継続していたマンテル大尉は、上昇していく未確認飛行物体を確認し司令部に「未確認飛行物体は上空を飛行中で、さらに上昇を続けている」、「高度7,000(フィート)までに追いつかなければ、追跡を断念する」と報告し、さらに、「飛行物体の中に何人かの人が見える」との連絡を取ったのを最後に、消息を絶つ。数時間後、マンテル大尉は、広範囲に散らばった機体の残骸と共に遺体で発見された。マンテル大尉の遺体は高温にさらされた状態で炭化しており、「まるで高熱銃で撃たれたようだった」という意見もあった。
[編集] 墜落原因
その後、この事件は全米のマスコミに報じられたものの、後に軍当局は「金星を未確認飛行物体と誤認して高高度に飛行し、酸欠状態に陥って意識を失い墜落したものと考えられる」と発表し、さらにその1年後には「研究用気球を誤認した」と訂正発表した。しかし、機体の残骸が広範囲に散っていたことから、何らかの理由で空中で爆発、分解したと推測されているにもかかわらず、マンテル大尉の遺体が黒焦げになっているなど、多くの不可解な点が残る。
[編集] 空軍UFO調査機関
この事件における未確認飛行物体との関連性が公式には否定されたにもかかわらず、この事件直後に正式に発足したアメリカ空軍内のUFO調査機関は、その後20年以上存在し続けた。
最初はコードネーム「プロジェクト・サイン」として1948年1月に発足。1949年にはコードネームを「プロジェクト・グラッジ」と改称し、同年の12月に閉鎖されるが、1951年10月に「プロジェクト・グラッジ」は再開される。翌年の1952年にコードネーム「プロジェクト・ブルーブック」と改称し、同プロジェクトは1969年に閉鎖されるまで存続した。以後、アメリカ空軍はUFOの調査を公式には行っていない。