ボロディノの戦い
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ボロディノの戦い | |
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ボロディノの戦い |
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戦争: 1812年ロシア戦役(ナポレオン戦争) | |
年月日: 1812年9月7日 | |
場所: ロシア中部モスクワ西方のボロディノ近郊 | |
結果: 大陸軍の辛勝、ロシア軍の戦略的撤退 | |
交戦勢力 | |
フランス軍を中核とする大陸軍 | ロシア軍 |
指揮官 | |
フランス皇帝ナポレオン1世 | ミハイル・イラリオーノヴィチ・クトゥーゾフ |
戦力 | |
133,000 野砲587門 |
120,000 野砲640門 |
損害 | |
戦死傷 33,000 | 戦死傷 44,000 |
ボロディノの戦い(ボロディノのたたかい, 英:Battle of Borodino, 露:Бородинское сражение, 1812年9月7日(ユリウス暦8月26日))は、1812年ロシア戦役(ナポレオン戦争)における戦闘の1つである。
フランスではモスクワ川の戦い(モスクワがわのたたかい, Bataille de la Moskowa)とも呼ばれる。モスクワ西方のボロディノ近郊で、フランス皇帝ナポレオン1世率いる大陸軍(だいりくぐん、グラン・タルメイ;フランス軍を中核とするヨーロッパ諸国連合軍)と、クトゥーゾフ率いるロシア軍との間で戦いが行われた。両軍ともに甚大な損害を出したものの決定的な勝利は得られず、ロシア軍の戦略的撤退によって戦いは幕を閉じた。
戦いの日にナポレオンは高熱に冒されていた。このことが、この日のナポレオンの指揮の不徹底さや作戦計画の単調さの理由であるとも言われる。
目次 |
[編集] 背景
1812年6月23日、ナポレオンのロシア遠征が始まった。ロシア軍総司令官バルクライは、焦土戦術を実行しつつ、数回にわたって防衛陣地の構築を試みたが、大陸軍の侵攻速度が余りにも早く、退却を余儀なくされた。バルクライは戦うべきだとする政治的圧力に押されて総司令官職を解任され、後任にクトゥーゾフが就任した。
だがクトゥーゾフも、大陸軍との早急な決戦で無益な犠牲を蒙ることの愚かさを理解していた。そこで、クトゥーゾフは大陸軍をモスクワ西方100kmまでひきつけ、スモレンスクからモスクワに至る街道上の町ボロディノで迎え撃つこととした。ロシア軍は9月3日から陣地構築を開始し、「ラエフスキー角面堡」と「バグラチオン突角堡」を構築して大陸軍を待ち構えた。
[編集] 経過
ロシア軍はボロディノに陸軍部隊120,000と野砲640門を集結させた。他に予備兵力として民兵(Ополчение)が後方にあったが、戦闘には参加しなかった。ロシア軍はバルクライの指揮する右翼をカラチャ川沿いに配置し、中央部をラエフスキーが守る角面堡、左翼をバグラチオンが守る突角堡、その外側を森林で防御する体勢であった。
大陸軍は兵力133,000、野砲587門を集結させ、北からウジェーヌの第4軍団、ネイの第3軍団、ジュノーの第8軍団、ダヴーの第1軍団、ポニャトフスキの第5軍団を配置した。戦闘開始前、ダヴーはロシア軍の左翼を南から迂回する作戦案を提言したが、ナポレオンはロシア軍左翼への正面攻撃を命じた。これはナポレオンらしからぬ単純過ぎる作戦計画であるとも言われるが、ロシア軍を1日で撃滅する決定的勝利を企図したものとも言われる。
9月7日午前6時、大陸軍はロシア軍左翼へ向けて前進を開始した。ラエフスキー角面堡へのウジェーヌ軍団の攻撃は大きな損害を出して失敗し、その他の軍団の前進も停滞させられた。午前10時までに戦闘は甚大な犠牲を伴う消耗戦の様相を呈していた。大陸軍ではネイが負傷し、ロシア軍ではバグラチオンが瀕死の重傷を負った。
正午過ぎ、バグラチオン突角堡に対してミュラが歩兵と騎兵の合同による突撃を仕掛け、これを奪取した。しかしロシア軍も隣接する高地から猛烈な砲撃を浴びせた。ミュラはナポレオンに対して親衛隊を増援に投入するよう要請したが、この日決断力を欠いていたナポレオンは要請を拒否した。午後3時、ラエフスキー角面堡への大陸軍の攻撃もようやく実を結び、コレンクールの騎兵連隊が突入に成功した。コレンクールは戦死したが、角面堡は占領された。
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- 角面堡を奪取したのはザクセン胸甲騎兵であるという説もある。外部リンクを参照
こうしてロシア軍の第一線陣地は攻略されたが、その背後にはバルクライの右翼部隊が戦線を構築し、それ以上の前進を阻んだ。ロシア軍の体勢は全く崩れていなかった。午後5時までに両軍とも弾薬を消耗し尽くし、戦いは終息した。戦死傷者は大陸軍33,000、ロシア軍44,000に及んだ。両軍ともに決定的な勝利を得られないまま、クトゥーゾフはロシア軍に撤退を命じた。
[編集] 影響
ロシア軍の撤退によって道は開かれ、大陸軍は9月14日にモスクワに入城した。しかしナポレオンは会戦における決定的勝利をついに得られないままであった。陸軍部隊が健在のロシア皇帝アレクサンドル1世は和平交渉を拒否し、10月19日、ナポレオンはモスクワからの撤退を余儀なくされた。その帰途、大陸軍は冬のロシアで壊滅する。
ボロディノの戦いはトルストイの『戦争と平和』でもクライマックスの一つとして描写されている。
[編集] 参考
- 序曲1812年
- David G. Chandler, Campaigns of Napoleon: The Mind and Method of History's Greatest Soldier, 1973, ISBN 0025236601
- David G. Chandler, Dictionary of the Napoleonic Wars (Wordsworth Military Library), Wordsworth Editions Ltd, 1999, ISBN 1840222034
- 大陸軍 その虚像と実像
カテゴリ: 1812年 | ナポレオン戦争の戦闘 | ロシア帝国の戦闘