ペドロ4世 (アラゴン王)
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ペドロ4世(スペイン語:Pedro IV, カタルーニャ語:Pere IV, 1319年 - 1387年)は、アラゴン王、バレンシア王、バルセロナ伯(在位:1336年 - 1387年)。「尊儀王(スペイン語:el Ceremonioso, カタルーニャ語:el Cerimoniós)」あるいは「the one of the little dagger(el del Punyalet)」と呼ばれる。アルフォンソ4世(慈悲王)と王妃テレサの息子。マヨルカ王ハイメ3世を廃し、バレアレス諸島とルシヨンをアラゴン王国に回復した。また、自ら年代記を書いたことでも知られる。
1336年、父王の死去により王位に即いた。1356年から、カスティーリャ王国のペドロ1世(残酷王)と「二人のペドロの戦争」を戦ったが、ペストなどの自然災害により勝者なく1375年のアルマサン条約によって終結した。
ペドロ4世は、自身の治世の間しばしば異端審問所長のNicolas Eymericと対立した。また1358年から1359年の会議で自治政府が設立された。
ペドロ4世は生涯に4度結婚した。最初の王妃は1338年に結婚したナバーラ女王フアナ2世の王女マリア(1326年 - 1347年)で、彼女との間にコンスタンサ(シチリア王フェデリーコ3世妃)とフアナをもうけた。次いで1347年にポルトガル王アフォンソ4世の王女レオノール(1328年 - 1348年)と結婚したが、翌年彼女はペストで死去した。3人目の王妃はシチリア王ピエトロ2世の王女レオノールで、彼女との間にはフアン(後のフアン1世)、マルティン(後のマルティン1世)、レオノール(カスティーリャ王フアン1世妃)、アルフォンソ(夭逝)らをもうけた。最後の王妃は1377年に結婚したSibila of Fortiàで、彼女との間にはウルヘル伯ハイメ妃となったイサベルが生まれた。
ペドロ4世は1387年にバルセロナで死去し、王位を長男のフアン1世が嗣いだ。
- アラゴン王
- 1336-1387
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- 先代:
- アルフォンソ4世(慈悲王)
- 次代:
- フアン1世(狩猟王)
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