プラヤー・マノーパコーンニティターダー
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プラヤー・マノーパコーンニティターダー พระยามโนปกรณ์นิติธาดา |
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基本情報 | |
本名 | コーン・フタシン ก้อน หุตะสิงห์ |
生没年 | 1884年7月15日 - 1948年10月1日 |
出身地方 | バンコク首都府 |
出身勢力 | 立憲革命前の司法局 |
前後の主権者 | |
前主権者 | ラーマ7世 |
第1代首相 | プラヤー・マノーパコーンニティターダー 1938年12月16日 - 1948年8月1日 |
第2代首相 | プラヤー・パホンポンパユハセーナー |
外部リンク | 政府サイト |
プラヤー・マノーパコーンニティターダーはタイ最初の首相。
注:日本語の文献では名前のうち、マノーパコーンのみが使われています。これは本来的には誤りですが、以下の文でもその名前の長さを考慮し、読みやすさからマノーパコーンと表記しました。またマノーのみの表記もありますが基本的に採用しませんでした。
目次 |
[編集] 首相就任まで
1884年7月15日、フワットを父とし、ケーオを母としてバンコクに生まれ、名前はコーンと名付けられた。後に家族は姓を取得。本名はコーン・フタシンとなった。
幼年時代はワット・ラーチャブーラナ(寺院)で学んだ。成績優秀であったため名門、スワンクラープ校で学ぶ。のちにミッション系のアサンプション・カレッジで修学。法学方面に進学し、政府の司法学校を入学、1903年卒業する。その後、1905年イギリスへ渡りミドル・テンプル(司法学校)を1908年卒業した。この時、法廷弁護士資格(バリスター)を取得している。
高等裁判所で判事と教員を兼業し、後に最高裁判官、枢密院顧問と昇進し、最終的にプラヤー・マノーパコーンニティターダーの官位・欽錫名を得た。
[編集] 首相就任
1932年6月24日に、プラヤー・パホンポンパユハセーナーを筆頭とする人民党により立憲革命が起こる。これによりタイは絶対王政が崩壊したが、この時開かれた人民代表院によって首相が選ばれ、マノーパコーンは人民党のメンバーではなかったが、王室との関係もあり人民党と王族勢力の橋渡しになるだろうと期待され、同年6月28日初代首相に指名された。これにより人民委員会が成立した。
[編集] 人民委員会
1932年6月28日 - 1932年12月9日
この立憲革命の特徴として平民出身の官僚・軍人が王族占有に近かった政府を打倒した事件であると言われている。同様にマノーパコーンも王族を退けようと、ラーマ5世の第55子である反立憲革命勢力のナコーンサワン親王を国外追放した。その後、マノーパコーンは、就任前に布告されていた一時的な憲章、仏暦2475年サヤーム国統治憲章に修正を加え、12月9日に一旦人民委員会を解散。翌日に仏暦2475年サヤーム王国憲法を公布し、第1次マノーパコーン内閣を発足させた。
[編集] 第1次マノーパコーン内閣
1932年12月10日 - 1933年4月1日 1933年1月、プラヤー・マノーパコーンニティターダーは人民党の解散を命じたが、一部の過激派が人民の会を創設した、これにより政府は早々混乱した。これに対しマノーパコーンは同年3月9日、政府関係者に対し人民の会への入会を禁止した。このころより、国会はマノパコーン派、プラヤー・パホンポンパユハセーナー派、ルワン・プラディットマヌータム派に分かれ、
3月19日にはルワン・プラディットマヌータム(後のプリーディー・パノムヨン)が発表した国家経済計画がラーマ7世から共産主義的と言う批判を受け、政府は検討委員会を設置した。これには激しい議論が交わされたが穏健派や軍部が強固な反対を見せ結局否決された。その後、ルワン・プラディットマヌータムの急進派による穏健派の襲撃未遂事件が起こったためマノーパコーンは29日にフワヒンを訪れラーマ7世に、国会の停止に関する書類への署名を要求した。翌年4月1日には、国会を閉鎖し憲法の改定を行った。これにより第2次マノーパコーン内閣が成立する。
[編集] 第2次マノーパコーン内閣
1933年4月1日 - 1933年6月20日
マノーパコーンは新憲法に内閣の立法権を盛り込んでいた。これによりマノーパコーンは内閣編成早々、4月2日に共産主義者関連法という反共法を施行した。同年同月の12日、共産主義者呼ばわりされたルワン・プラディットマヌータム(後のプリーディー・パノムヨン)をフランスへとばされた。このようにして急進派を除去すると、今度は6月10日、プラヤー・パホンポンパユハセーナーを閣僚から外した。しかしプラヤー・パホンポンパユハセーナーは革命団を結成同年同月の20日にはマノーパコーン政府に対しクーデターを行った(実際にはマノパコーン政権に従順な反応を見せていたピブーンの仕組んだクーデターだと言われる。)。これによりマノーパコーンは辞表にサインした。
[編集] 晩年
マノーパコーンは革命が起きるとペナン島に逃れたそこで10年を過ごし、帰国を果たさぬまま客死した。
[編集] 内閣閣僚一覧
[編集] 人民委員会閣僚
委員長 | プラヤー・マノーパコーンニティターダー |
委員 | プラヤー・プリーチャーチョンユット陸軍少将 (ワン・チャールパー) |
〃 | プラヤー・シーウィサーンワーチャー (ティエンリエン・フントラクーン) |
〃 | プラヤー・パホンポンパユハセーナー陸軍大佐 |
〃 | プラヤー・ソンスラデート陸軍大佐 (テープ・パンマセーン) |
〃 | プラヤー・リットアッカネー陸軍大佐 (サラ・エマーシリ) |
〃 | プラヤー・プラムワンウィッチャープーン (ウォン・ブンロン) |
〃 | プラ・プラサートピッタヤーユット陸軍中佐 (ワン・チューキン) |
〃 | ルワン・ピブーンソンクラーム陸軍少佐 |
〃 | ルワン・シンソンクラームチャイ海軍少佐 (シン・カモンナーウィン) |
〃 | ルワン・デートサハコーン (モームルワン・デート・サニッタウォン) |
〃 | トゥワ・ラパーヌクロム |
〃 | プラユーン・パモーンモントリー陸軍中尉 |
〃 | ネープ・パホンヨーティン |
[編集] 第1次マノーパコーン内閣閣僚
総理大臣 | プラヤー・マノーパコーンニティターダー |
大蔵大臣 | プラヤー・マノーパコーンニティターダー |
国防大臣 | プラヤー・ラーチャワンサン海軍中将 |
外務大臣 | プラヤー・シーウィサーンワーチャー |
農商大臣 | チャオプラヤー・ウォンサーヌプラパン (モムラーチャウォン・サターン・サニッタウォン) |
宗教大臣 | チャオプラヤー・タンマサックモントリー (サナン・テープハッサディン) |
内務大臣 | プラヤー・チャーセーンヤボーディーシーボーリバーン (チット・スントーラウォーン) |
法務大臣 | プラヤー・テープウィトゥンパフンサルターボーディー (ブンチュウワイ・ワニックン) |
国務大臣 | プラヤー・プリチャーヨンユット海軍少将 |
〃 | プラヤー・パホンポンパユハセーナー陸軍大佐 |
〃 | プラヤー・ソンスラデート陸軍大佐 |
〃 | プラヤー・リットアッカネー陸軍大佐 |
〃 | プラヤー・プラムワンウィッチャープーン |
〃 | プラ・プラサートピッタヤーユット陸軍中佐 |
〃 | ルワン・プラディットマヌータム |
〃 | ルワン・シンソクラーム海軍少佐 |
〃 | ルワン・ピブーンソンクラーム海軍少佐 |
〃 | ルワン・デートサハコーン |
〃 | プラユーン・パモーンモントリー |
〃 | ネープ・パホンヨーティン |
〃 | トゥワ・ラパーヌクロム |
[編集] 第2次マノーパコーン内閣閣僚
総理大臣 | プラヤー・マノーパコーンニティターダー |
大蔵大臣 | プラヤー・マノーパコーンニティターダー |
国防大臣 | プラヤー・ラーチャワンサン海軍中佐 |
外務大臣 | プラヤー・シーウィサーンワーチャー |
農商大臣 | チャオプラヤー・ウォンサーヌプラパン |
宗教大臣 | チャオプラヤー・タンマサックモントリー |
内務大臣 | プラヤー・チャーセーンヤボーディーシーボーリバーン |
法務大臣 | プラヤー・テープウィトゥーンパフンサルターボーディー |
国務大臣 | プラヤー・ウドームポンペンサワット |
〃 | プラヤー・プリチャーンチョンユット海軍少将 |
〃 | プラヤー・マーナワラーチャセーウィー |
〃 | プラヤー・パホンポンパユハセーナー陸軍大佐 |
〃 | プラヤー・ソンスラデート陸軍大佐 |
〃 | プラヤー・リットアッカネー陸軍大佐 |
〃 | プラ・プラサートピッタヤーユット陸軍中佐 |
〃 | ルワン・ピブーンソンクラーム陸軍中佐 |
〃 | ルワン・シンソンクラーム陸軍中佐 |
〃 | ルワン・スパチャラーサイ海軍少佐 |
〃 | プラユーン・パモーンモントリー |