ティモシー・マクベイ
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ティモシー・ジェームズ・マクベイ(Timothy James McVeigh、1968年4月23日-2001年6月11日)は、アメリカ人テロリストで11の連邦法違反により有罪を宣告された。1995年4月19日、アメリカ合衆国オクラホマ州オクラホマシティで発生したオクラホマシティ連邦政府ビル爆破事件の主犯。168名の人命が失われた。2001年6月11日連邦刑務所内で死刑が執行された。遺族の数が800名を超えたためテレビで全米に放送され、議論が起こった。CNNの調査では国民の実に80%以上が死刑を希望し、意見の多様性を誇るアメリカでここまで意見が一つにまとまったのは日本軍による真珠湾攻撃以来だと評した。この事件は2001年のアメリカ同時多発テロまでアメリカ史上最悪のテロ事件だった。
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[編集] 生い立ち
ティモシー・マクベイは1968年4月23日、ニューヨーク州西部の町ペンドルトン(バッファローの近く)でアイルランド系カソリックの家に生まれた。高校はニューヨーク州ロックポートのスターポイント高校を卒業している。家族構成は2歳上の姉と6歳下の妹、両親の5人家族だったが、両親は彼が10歳の時に離婚した。ペンドルトンは極めて保守的で安定した町であり、人口構成も90%が白人。マクベイの父親は、マクベイの祖父(父の父)が30年勤め上げた車工場で働いていた。休日はTシャツに野球帽という普遍的なアメリカ人を体現したような人物だった。母親は旅行会社で働いていたが、夫の凡人ぶりに愛想を尽かし、裁判する事も無く、母は離婚届を置いて家出同然に家を出たため、残された家族はショックを受けた。当時の近所の住民も、妻は夫や子供達に断る事無く外出している事が多かった、と記憶している。父親は工場で夜勤が多く、その間子供たちは近所の住民が面倒を見ていたが、マクベイは友人達とバスケットボールで遊んだりと大きな問題があるようには見えなかった、と証言している。当時の友人達の証言では父親との関係を良好に保ち最大限の敬意を払っていたが母親については何も語らず、無理に聞き出そうとすると急に逆上することが度々あった。彼の父は敬虔なカソリック教徒で、離婚後も一家で日曜学校に参加したが、マクベイ自身はユダヤ教の洗礼を受けたユダヤ教徒であった。敬意を払っている父親との関係に傷をつけたくないがために日曜学校に参加していたものと推測される。
[編集] 軍隊生活
1988年、マクベイはアメリカ陸軍に従軍した。マクベイはアメリカ陸軍の一兵士として湾岸戦争にも従軍し、ブロンズ・スター・メダルを授与された。湾岸戦争前にカンザス州のフォート・リレイ基地に所属しそこでトップクラスの狙撃成績を残している。マクベイは極めて優秀な兵士として表彰され、新兵の訓練所で講義を依頼された事もあった。マクベイは陸軍のエリート舞台であるグリーン・ベレーに入りたがっていた。マクベイは湾岸戦争終結後グリーン・ベレー部隊編入のための訓練プログラムに登録したが、訓練開始二日目に体力的な理由からプログラムから外された。その後マクベイは自分が外された事に大きく落胆し、1991年12月31日に除隊している。
[編集] 除隊後
除隊後マクベイは生まれ故郷ペンドルトンの近くで警備員の仕事に就き、オクラホマ州オクラホマシティ連邦政府ビル爆破事件の数ヶ月前までカンザス州フォート・リレイ近くの町ジャンクションシティーで働いていた。
[編集] 爆破
1995年4月19日、マクベイは借りた4000lbs(2t)トラックに陸軍時代からの友人である共犯者の協力を得て、採石場から盗んだダイナマイトを伝爆薬とする(通常は軽油と硝安を使用するが、さらに高い爆発力を得るため、ラジコンヘリ、飛行機、ボートやレーシングカー等の燃料に配合する)、ニトロメタンと硝安から成る混合爆薬の一種であるANFO爆薬を満載した車爆弾を作成した。オクラホマシティ連邦政府合同庁舎ビル前まで運転してビルの目の前に車を止め、これを仕掛けると安全な場所に移動したのち、午前9時2分に伝爆薬のダイナマイトに取付けられた雷管の起爆スイッチを押した。ビルは前半分の80%が崩れ落ち一瞬で167名の命が奪われ、850名以上の負傷者が病院に収容された。168人目の犠牲者レベッカ・アンダーソンは収容先の病院で息を引き取った。168名の犠牲者にはビル1階の職員用託児所に預けられていた子供達が含まれている。逮捕後マクベイは捜査官にビルの1階に託児所があるとは知らず、もし知っていれば別の場所を狙ったと供述している。託児所はトラックから10mと離れていなかったため預けられていたため子供達は全員死亡した。事件後合同庁舎ビル跡地には慰霊のための公園が作られ、そこにはこの事件で働いたレスキュー隊員や一般市民で救助に助力した人々の名前が石碑に刻まれた。
事件後専門家がオクラホマ州連邦政府合同庁舎ビルの構造を調べたところ1階の玄関前の部分が柱で支えられ、その上に2階以上の階が乗る形になっていた事から元々衝撃に弱く、柱が折られた事で上の階が崩壊するような構造になっていた事がはっきりした。事件後マクベイは捜査官からの尋問に対し、その事を熟知した上で正面玄関前に爆発物を搭載したトラックを止めたと供述した。
[編集] 逮捕、裁判、有罪判決
事件後すぐにFBIが動き、犯行に使われたトラックがジャンクションシティーから借り出された事を突き止め、レンタカー会社の社員に借主の似顔絵製作に協力を要請した。社員はその依頼を快諾し、トラック貸し出し時に作成した依頼書にはクリングKlingの名前が記載されていた。マクベイの似顔絵はすぐさまテレビに公開され、ドリームランドホテルに泊まっていたリー・マクガウンという男に良く似ている、という情報が提供された。クリング、リー・マクガウン共にマクベイが使った偽名であった。
ビル爆破後マクベイはテレビに自分の似顔絵が流されている事など露知らずにオクラホマ州ペリー近くのノーブル郡ハイウェイを車で走っていたが、オクラホマ州パウニーでハイウェイパトロールのチャールズ・J・ハンガーに呼び止められた。ハンガーはマクベイの車には有効なナンバープレートが付けられていない事に気付いたためである。マクベイは有効なナンバープレートをつけずに公道を走った事、そして弾が装填された重火器を許可証無しに持ち歩いていた事で逮捕された。三日後、刑務所内でマクベイは国を挙げての犯人捜査の網に引っ掛かった。
裁判でマクベイの弁護団は連邦政府合同庁舎ビルの爆破は政府によるウェイコ事件に対する抗議のためだと主張し、ウェイコ事件において政府が国民に対して大きな嘘をついたと公言した。
1995年8月10日、マクベイは11の連邦法違反と8の第一級殺人罪により起訴され、同年10月20日連邦裁判所は死刑判決を下した。
[編集] 死刑
マクベイの死刑執行はマクベイ自身とその弁護団による死刑執行の中止要請により遅れたが、最終的には2001年6月11日にインディアナ州テレ・ホート連邦刑務所で薬物による刑が執行された。前述の通り遺族の数が800名を越えたため全員を死刑執行に立ち会わす事が不可能なため、立ち合いをした遺族は抽選で選ばれ、その他の遺族には暗号化された信号によりテレビ中継された。
[編集] その他
オクラホマシティー連邦政府ビル爆破事件後各種メディアが事件とマクベイについて取り上げ、有力紙であるタイムとニューズウィークでは彼の顔写真で表紙を飾り、何週間も連続して彼について特集を組んだ。 事件発生当初警察・FBI・マスコミや一般市民までもがイスラム過激派やネオナチの仕業ではないかと憶測したが、捕まえてみるとかつては陸軍に従軍していた優秀な兵士の一人だった事に衝撃を受けた。共犯者には終身刑、さらにもう一人の男には計画を知っていながら通報しなかったとして懲役12年が確定している。
[編集] 関連項目
- オクラホマシティ連邦政府ビル爆破事件
- アルフレッド・P・ミュラー連邦政府ビル