ジョージ・マイカン
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ジョージ・ローレンス・マイカン(George Lawrence Mikan Jr, 1924年6月18日 - 2005年6月1日)はアメリカ合衆国の元バスケットボール選手。NBA創成期に、当時としては例外的な高身長を活かし、リーグ初の本格的なスター選手として活躍。試合ではあまりにも支配的な存在であったため、競技のルールに変更が加えられたほどだった。
1946年、NBAの前身であるNBL(National Basketball League)のシカゴ・ギアズと契約。その後同チームは「プロバスケットボール・リーグ・オブ・アメリカ」(Professional Basketball League of America)に移った。このリーグが消滅すると、マイカンはNBLのミネアポリス・レイカーズへの入団が認められ、1947年に契約。翌1948年、ミネアポリス・レイカーズは BAA(Basketball Association of America)に移り、さらに1949年にBAAがNBLと合併して誕生したNBAのチームとなる。
マイカンはその後1956年までレイカーズでプレーした(1954-55年のシーズンは一時的に引退)。NBLとNBAの期間を通じ、チームに在籍していた9年間で5回の優勝に貢献した。
208センチの長身ながら俊敏さと技術を兼ね備えていたマイカンは、その時代のリーグでは圧倒的な選手として君臨した。その結果、「ショットクロック」の導入や、現在は「ペイントゾーン」とも言われるゴール下の領域の拡大など、ルールそのものが改訂された。デポール大学(DePaul University)でプレーしていた当時も、マイカンがリングより上のシュートボールをしばしばブロックしたために、NCAAは「ゴールテンディング」のルールを導入した。これらマイカンが原因で導入されたルールは、現在のNBAや国際ルールでも受け継がれている。
プロトタイプ的なセンタープレイヤーであり、その技術は後年の選手たちにも大きな影響を与えた。
引退後、ビルのオーナーなどの仕事ののち1967年から1969年までABA(American Basketball Association)のコミッショナーを務めた。同リーグで使用された赤青白三色のボールを考案したのはマイカンだった。
1980年代には地元ミネアポリスにプロのバスケットボールチームを発足させるようNBAに働きかけ、それがミネソタ・ティンバーウルブズとして結実した。
NBA年間最優秀チーム(All NBA 1st Team)には5度選出、NBLとNBAを通じて6回得点王になる。1959年に「ネイスミス記念バスケットボール殿堂」(Naismith Memorial Basketball Hall of Fame)入りを果たした。1996年には「50年間の偉大な50人の選手」の一人に選ばれ、1970年と1980年にも同様に NBA 25周年、35周年のオールタイムチームに選出されている。