ジャラールッディーン
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ジャラールッディーン・メングベルディー(جلال الدين منكبرتي Jalāl al-Dīn Menguberdī ? - 1231年)は、ホラズム・シャー朝の第8代スルターン(在位1220年 - 1231年)。
第7代アラーウッディーン・ムハンマドの子。軍事的才幹に優れていたが、宮廷内の対立からカンクリ部族出身の祖母に疎まれて中央から遠ざけられ、ホラズム・シャー朝領南部のガズナ(現アフガニスタン東部)の総督となって任地に赴任していた。
1219年にモンゴル帝国のチンギス・ハーンが中央アジアに侵攻して諸都市が破られにホラズム・シャー朝が崩壊し、翌年アラーウッディーンが逃亡先のカスピ海で病死すると、1221年にホラズム地方の首都ウルゲンチに戻ってスルターンに即位した。
ジャラールッディーンはすぐに本拠地のガズナに戻って再挙を図り、地元の有力者を糾合して兵を集めた。同年にはカーブル近郊のパルヴァーンでシギ・クトク率いるモンゴル軍の先鋒隊を破ってモンゴルに対する最初の大規模な勝利を収める。しかし、この報を受けたチンギス・ハーンは、中央アジアのサマルカンドに駐留していた本軍を率いてアフガニスタンに南下したため、ジャラールッディーンは各地で破られて兵を減らし、インダス川まで南下した。インダス河畔のディンコートで行われた決戦でジャラルッディーンは敗れたが、インダスの濁流に馬で乗り入れて渡りきり、生き残った少数の部下とともにインドに逃げ込んだ。チンギス・ハーンがこのようなジャラールッディーンの姿に驚嘆し、王子に向かって「男子たるものはあのようでなければならない」と語ったという逸話が知られている。
インドでジャラールッディーンは奴隷王朝のイルトゥトゥミシュを頼ってモンゴル軍との戦いを続けようとしたが、断られたので1224年にインドからイランに戻り、モンゴル軍の主力がモンゴル高原に帰還した隙を突いてイラン高原中部の主要都市イスファハーンに入った。しかし、ホラーサーンに駐留して中央アジア・イランを守備していたモンゴル軍によって攻撃され、アゼルバイジャン方面に逃れる。タブリーズを本拠地としたジャラールッディーンはグルジアのティフリスを征服するなど、南カフカスから東部アナトリア、シリア方面の諸勢力と戦って勢力を広げた。
しかし、活発すぎる活動と、周辺諸国に対する略奪によってアナトリアを支配するルーム・セルジューク朝とシリアを支配するアイユーブ朝との関係を悪化させ、1230年にエルジンジャン近郊のヤッス・チメンでカイクバード1世率いるルーム・セルジューク朝とアイユーブ朝の連合軍に敗れて勢力を失った。さらに、モンゴル帝国の大ハーン、オゴデイが派遣した追討軍が背後に迫り、アゼルバイジャンを追われた。
ジャラールッディーンは東アナトリアに逃れ、山中の諸都市を転々としたが、ディヤルバクルに滞在中にジャラールッディーンに怨恨をもった地元のクルド人に襲われ、殺害された。