コシラ
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コシラ(Qošila, 1300年 - 1329年)は、モンゴル帝国(元)の第11代大ハーン(在位1329年4月 - 8月)。漢字表記は和世束1。廟号は明宗、諡は翼献景孝皇帝。モンゴル語の尊号はクトクトゥ・カアン(ホトクト・ハーン)。
武宗カイシャンの長男。カイシャンが即位すると、皇太子に立てられた弟アユルバルワダの次代のハーンに定められたが、1311年のカイシャン急死後、カイシャン兄弟の母ダギと中書右丞相テムデルらダギの実家コンギラト部族に連なる派閥が政権を掌握し、コンギラト部族の女性を母としないコシラにかわってアユルバルワダの子シデバラが皇太子に立てられた。コシラは周王に封ぜられ、辺境の雲南に送り出されたが、配地に向かう途中陝西で謀殺されかけたため、中央アジア方面に逃亡した。
大ハーンに即位した英宗シデバラが暗殺され、暗殺者も次のハーンとなった泰定帝イェスン・テムルによって一掃されたことによってコシラを排斥したテムデルの一党は政権から排除されていたが、コシラはそのまま中央アジアに留まり、かつて父のカイシャンが懐寧王を名乗る王族だった時代に駐留していたアルタイ山脈西麓方面で自立勢力を固めていた。
1328年旧暦7月にイェスン・テムルが没すると、上都でイェスン・テムルの遺児アリギバを擁立した左丞相ダウラト・シャーを中心とするイェスン・テムル政権派と、大都でコシラの弟トク・テムルを擁立したキプチャク軍閥のエル・テムル、アスト軍閥のバヤンらを中心とする旧カイシャン政権派による内乱が起こり、ゴビ砂漠以南の諸王・貴族・軍閥の支持を集めた大都側が勝利した。一方、内乱開始の報を受けたコシラは、中央アジアの諸王の後援を受けてアルタイ山脈を越え、モンゴル高原に入った。モンゴル高原の諸王族、有力者たちはコシラを正統なハーン位の継承者と認めて旧都カラコルムに迎え入れ、コシラは高原のモンゴル遊牧騎馬軍団の圧倒的な軍事力を背景に、既にハーンに即位していた弟トク・テムルに圧力をかけた。
大都のトク・テムル政権は名目上はより有力なコシラとの内戦を諦め、コシラにハーン位を譲ることを宣言した。年があけて1329年春、まずトク・テムルのもとで政府首班の中書右丞相となっていたエル・テムルが皇帝の玉璽を携えてモンゴル高原に赴き、大都側がコシラを歓迎して迎え入れる意を明らかにした。トク・テムルは改めて皇太子を名乗り、コシラは大ハーンと称して上都に向かった。
8月1日、コシラは上都近郊のオングチャド(王忽察都)に至って行営を張り、翌日より皇太子トク・テムル以下王族・大臣を集めて宴会を行ったが、8月5日になって突如営中没した。コシラの側近に集ったチャガタイ一門やモンゴル高原の王族・有力者によって権勢を奪われることを怖れたエル・テムルが先手を打って毒殺したとみられる。
イェスン・テムルの死からコシラの死、トク・テムルの復位までの1年間の一連の騒乱をトク・テムルの元号をとって「天暦の内乱」という。天暦の内乱の後はキプチャク軍閥のエル・テムル、その死後にはアスト軍閥のバヤンが独裁権を握り、元末の軍閥政権時代が幕を開けることになる。
先代 |
1329年4月 - 8月 |
次代 |
泰定帝イェスン・テムル | 文宗トク・テムル | |
文宗トク・テムル |
[編集] 注
- 束は正しくは王偏に束(【王束】)。