クレタ文明
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クレタ文明(クレタぶんめい)は、エーゲ文明のうち、クレタ島で栄えた青銅器文明で、伝説上のミノス王にちなみ、ミノア文明ともよばれる。
イギリスの考古学者サー・アーサー・エヴァンズは、ハインリッヒ・シュリーマンが発見したトロイアとミュケナイの文明が、文字なしには成立し得ないと考え、石に刻まれた印章の採集・研究の結果、これをクレタ島起原であると結論づけた。今日、彼の考証は誤謬であったことが証明されているが、1900年にはクノッソスを発掘し、ギリシャ本土より200年以上前に発展した文明の痕跡を発見、これをミノア文明(Minoan)と名付けた。
[編集] ミノア文明
紀元前2000年頃の中期ミノア期に、地中海交易によって発展し、クノッソス、マリア、ファイストスなど、島内各地に地域ごとの物資の貯蔵・再分配を行う宮殿が建てられた。宮殿以外にもコモスやパレカストロのような港湾都市が繁栄。また、貿易を通じてエジプトやフェニキアの芸術も流入し、高度な工芸品を生み出した。紀元前18世紀ごろには、線文字Aを使用している。
紀元前1600年頃の後期ミノア期には、各都市国家の中央集権化、階層化が進み、クノッソス、ファイストスが島中央部を、マリアが島東部をそれぞれ支配するに至ったが木材の大量伐採による自然環境の破壊が文明そのものの衰退化を招き、紀元前1400年ごろにミュケナイのアカイア人がクレタ島に侵入、略奪されクレタ文明は崩壊した。
クレタの宮殿建築は非対称性・有機的・機能的な構成で、中庭は外部から直接に侵入でき、かつ建物の各部分への動線の起点となっている。建物は常に外部に対して解放されており、当時のクレタが非常に平和であったことが推察される。
初期の宮殿建築では、宮殿に接して市民の公共空間が設けられていたが、後期ミノア時代に社会体制が中央集権化・階層化するとともに次第に公共空間は廃れ、他の建築物が建てられた。祭政を一体として行っていたために、独立した祭儀場を持たない。