エゼルレッド2世 (イングランド王)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
エゼルレッド2世(Ethelred II、968年 - 1016年4月23日)は、イングランド王(在位、978年 - 1013年、1014年 - 1016年)。エゼルレッド無思慮王とも称される。
[編集] 生涯
前王のエドワード殉教王が暗殺されたため10歳で王位についた。エゼルレッドは、その治世を通じて絶えずデーン人の侵入に苦しめられた。デーン人は侵入のつど、イングランドは「デーンゲルド」と称される退去料を支払ってきた。これは一時的な平和には寄与したものの、イングランド財政には大きな負担となった。
エゼルレッドは、デーン人がノルマンディーを拠点としてイングランドに攻撃を仕掛けることを恐れた。そのため、ノルマンディー公国と友好関係の樹立を図り、当時のノルマンディー公の妻、エマと結婚した。しかしながら、これによって築かれた姻戚関係は、およそ半世紀後のノルマン・コンクエストを導く一因となったわけで、この婚姻政策が賢明な判断だったかは微妙である。
また、エゼルレッドはデーン人に対する懸念から、国内のデーン人を虐殺した。このことは、当時のデンマーク王スヴェン1世の反発を招き、デーン人の侵入を激化させることになった。イングランドの国内勢力をまとめ上げることもかなわず、ついに1013年、デーン人の攻撃に屈して姻戚関係にあったノルマンディーへの亡命を余儀なくされた。
こうしてスヴェン1世にイングランド王位を奪われたが、翌1014年にスヴェン1世が急逝した。そのため、エゼルレッドはイングランドに帰国して復位を果たした。しかし、デーン人のカヌート(のちのデンマーク王クヌーズ1世)がイングランド遠征を引き継いだため、引き続きデーン人との攻防は続いた。だが、1015年には3代の国王に仕えて、「デーンゲルド」政策推進の中心人物であった重臣・エアドリチがカヌートに内応して離反してしまう。これによってイングランド側は苦境に立たされる。こうした状況の中、生涯を通じてデーン人と争ったエゼルレッドは、1016年に病没した。
その後、エゼルレッドの息子、エドマンドが王位を継承した(エドマンド2世)。しかし、まもなく彼も死去したため、デーン人のカヌートがイングランドの王位につくことになる。
デーン人に国を奪われたために後世、「無思慮王」と呼ばれて歴代国王の中でもジョン王と並ぶ暗君と言われ続けた。だが、当時の年代記にはエゼルレッドを不当に貶めているのではと疑わせるような記述もある一方で、同時期の古文書の研究の進展とともに彼の治世において初めて文書による行政運営が行われたことや法典編纂などが進められた事が分かり、その後のイングランドの政治の範となった要素も少なくない事が分かった。再評価の必要性が言われている王の一人である。
- イングランド国王
- 1014-1016
-
- 先代:
- スヴェン1世
- 次代:
- エドムンド2世(剛勇王)