V1飛行爆弾
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V-1とは、第二次世界大戦時、ドイツ空軍が開発したミサイル兵器である。パルスジェットエンジンを搭載した、現在の巡航ミサイルの始祖とも言える兵器である。宣伝相ゲッベルスはこれを報復兵器第1号(Vergeltungswaffe 1)と命名して対英報復を煽った。V-1 とは Vergeltungswaffe 1 の略号である。正式名称はフィーゼラー Fi 103 である。
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[編集] V-1諸元
- V-1(Fi 103)
- 全長7.9m 全幅5.3m 胴体最大直径0.84m
- 発射重量2,200kg 弾頭重量850kg
- パルスジェットエンジン(1基)で約600km/hで飛翔
- 誘導装置:ジャイロスコープによる方向を定める制御装置と、アネロイド気圧高度計による飛行高度設定。機首先端にある小さなプロペラの回転数によって飛翔距離を割り出し、一定回転数でエンジン停止、制御装置が機体を急降下させ目標に突入する。
[編集] V-1の実用化
1942年6月、ドイツ空軍はフィーゼラー社に対してパルスジェットを動力とする飛行爆弾の開発を命じる。これが V-1 開発の始まりである。理由は、イギリス本土に対する爆撃機による戦果が期待できない問題や、陸軍が開発する V-2 に対する対抗意識もあったと言われている。この飛行爆弾には有人飛行機同様フィーゼラーFi 103 の呼称が与えられたが、兵器の特性上、機密保持の観点から「Kirschkern(サクランボの種)」及び「Flakzielgerät(高射砲標的装置)」と呼ばれ、秘匿される。
なお、パルスジェットエンジン本体はアルグス社、誘導装置をジーメンス社、発射台をヘルムート・ヴァルターの会社が担当したので、フィーゼラー社が携わったのは機体本体のみである。
1942年12月、Fw 200コンドルより投下実験、同12月には V-2 の実験を行っていたペーネミュンデ陸軍兵器実験場 (HVP) の西隣の空軍兵器実験場カールスハーゲンよりバルト海に向けて試射に成功した。開発を命じてからわずか6ヶ月というスピードであるが、これはV-2と違い、単純な構造であったことと、V-2がそのほとんどを手探りで進まざるを得ない新技術を大量に導入しなければ完成しない兵器であったこととの差である。こうしてこの新兵器は、長距離ロケット V-2 のライバルとなった。イギリスに対する長距離攻撃兵器としてV-2とどちらを採用するかは、新たに発足された長距離攻撃委員会にゆだねられることになった。
1942年5月26日、長距離攻撃委員会の委員はペーネミュンデで討議を行い、結局どちらも生産という結論に達した。委員は発射見学をするが、このときV-2は50%の成功確率であったにもかかわらず2回中2回成功、かたやV-1は2回中ともに墜落という不運に見舞われる。1944年6月に実戦配備となる。実にノルマンディー上陸作戦の1週間後である。
[編集] V-1の成果
こうして実戦配備されたV-1は、北フランスのカレー地方より19発を発射した。しかしながらイギリス、ロンドンに到達したのはわずかに1発で、ほかは進路をはずす、途中で墜落するという到達率の低さであった。6月末までに2,000発を発射したものの依然として到達率は低い状態であり、当然ロンドンに決定的打撃を与えることなど到底不可能であった。その後9月まで1日平均102発を発射、9月はじめまでに計8,564発(諸説あり)が発射されたものの、ロンドンに到達したのは全体の25%程度に過ぎず、さらには撃墜技術の向上によって、もともと信頼性の低かった誘導性能と相まって、9月までにはさらに低下することになった。
最終的には72%が撃墜、または墜落という有様であった。残りの28%も、ロンドンに到達したのはそのうち9%で、残りの19%は他の地域に落ちることになった。なお、全8,564発中1,912発(22%)はイギリス戦闘機により撃墜、1578発(18%)が対空火器によって撃墜、278発(3%)は阻塞気球に衝突している。結局ロンドンに到達したのは2,340発となった。
9月以降は連合軍がカレー地方に進攻したため、陸上発射を断念、空中発射という方式をとることになる。オランダやベルギーから発進したハインケルHe 111に搭載されたV-1はロンドンを目指して飛んだものの、その到達率は陸上発射よりもさらに低く、6.5%となっていた。
10月に連合軍がベルギーのアントワープを奪取すると、今度はこれに矛先を向けることになる。そして年末までに8,698発を発射している。他にベルギーのリエージュに3,141発、ブリュッセルにも151発が発射された。
1945年3月3日からは、オランダから改良され飛行距離の伸びたV-1が再びイギリスにむけて発射される。全275発を発射し、イギリスに到達したのは125発(45%)で、86発(31%)が対空火器で撃墜、4発は戦闘機で撃墜されている。同月28日、2発がロンドンに到達し、翌29日に最後の1発がハットフィールドに落下したのが、V-1の最後の実戦であった。
実際に発射されたV-1は21,770発にのぼり、さらに発射失敗とされているものが2,448発ある。なお、イギリスの被害は死者および重傷者24,165人であり、ヨーロッパ本土での被害は不明。
[編集] V-1の戦略的意義
V-1は、先に述べたとおりに現在の巡航ミサイルの始祖ともいえるものである。しかしながら、当時の制御技術ではV-1自身における戦略的な意義はほとんどなく、コストが安かったため大量に製造・発射されたものの、発射数と戦果の状況を見ればわかるとおり割に合わない兵器であった。V-1は航空機でも十二分に迎撃可能な高度を、航空機で十分追い越すこともできる600km/h程度で飛翔してくるため、翼同士を当ててバランスを崩させて墜落させるという方法さえ可能であり、イギリスにとっては脅威とはなりえない兵器であった。
そのため、V-1については有効的な兵器ではなかったという評価があてはまると思われる。今日でも巡航ミサイルは戦術兵器にあたるものであって、戦略兵器ではない(ただし、通常弾頭を装備している限りは、である)。それをドイツの劣勢挽回のための超兵器に仕立て上げようとしたことに、そもそもの無理があったのかもしれない。その点において、ゲッベルスが付けた、報復兵器、という名前がふさわしいともいえる。
ところが、技術革新がV-1の後継者である巡航ミサイルの価値を飛躍的に高めた。冷戦時、巡航ミサイルは核弾頭を装備した状態で、潜水艦に搭載され、両陣営の抑止戦略に貢献した。一方V-2は弾道ミサイルとなって、大陸をも跨いで核弾頭を直接打ち込む兵器となって、こちらも抑止戦略に貢献した。どちらも、それら子孫を生み出した効果のほうが、大戦中に上げた戦果よりもはるかに大きいものである。
V-1は、戦術兵器として十分な成果を上げている巡航ミサイルの先鞭を付けた、という点から「時代を先取りしすぎた兵器」といえるであろう。
[編集] 文獻
- 野木恵一(著)、『報復兵器V2』、朝日ソノラマ、1983年、ISBN 4-257-17032-8
- Tony Kenrick (著)、上田公子(訳)、フランスに数多く建設された発射基地に関わる小説、『消えたV1発射基地』、角川書店、1986年、ISBN 4-04-253108-3
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