Luis-Mary
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Luis-Mary(ルイ・マリー)は主に日本で活動していたビジュアル系ロックバンドである。1989年に大阪で結成され、インディーズ時代はFORK SONG RECORDSからCDをリリースした後、1991年に日本クラウンからメジャーデビューをした。一時期は「東のLUNA SEA、西のLuis-Mary」と言われていた事もあった。
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[編集] メンバー
- HAINE(西川貴教・ボーカル)(1970年9月19日生まれ、滋賀県野洲町(現・野洲市)出身)
- ZYENO(山下善次・ギター)(1971年1月4日生まれ、千葉県出身)
- SHIEN(丸山武久・ベース)(1970年8月25日生まれ、大阪府出身)
- KEN(有田賢・ドラム)(1970年4月13日生まれ、千葉県出身)
[編集] 来歴
[編集] Luis-Mary結成
元々は大阪スクールオブミュージック専門学校の同じ総合音楽科に籍を置いていたメンバーで結成されたバンドである。 ZYENOとSHIENを中心に結成され、後にHAINEとKENが加入。
[編集] インディーズ時代
インディーズ時代はライブ活動が中心であった。 当時、TBSの新番組『イカすバンド天国』の全盛期と言う事もあり、東京の原宿では歩行者天国にアマチュアバンドが集まる『ホコ天バンド』が脚光を浴びていた。そのため大阪でもなんらかの形でミュージックシーンを盛り上げようという事で、同じような事をする事に。 バンドブームが到来するとその中にもリーダー的立場のバンドが出てきた。それがシャ乱Qであった。 そしてシャ乱Qの人気に肉薄する勢いで出てきたのが西川率いるLuis-Maryであった。
Luis-Maryは当時の関係者から見て技術的にはまだまだであったが西川のボーカルが飛びぬけて上手く、パワーや情勢が感じられると言う風評がスタッフの耳に届き、だんだんLuis-Maryは注目を集め始める。 そしてLuis-Maryの人気を決定的にしたのは、大阪地区オンエアの『ライブ・キング』と言う番組への出演だった。 この『ライブ・キング』はLuis-Maryが専属契約を交わしているライブハウスが製作している番組だけに、当然彼等にも「出てみないか?」と言う声がかかった。Luis-Maryは大きな足掛かりをつかんだ。
[編集] Luis-Mary解散の危機
どんな有名なバンドでもメジャーデビューし、スターの座を歩みだすメンバーのそれぞれの過去を探ってみると必ずいくつかのバンドを行き渡りそして最後に結成されたバンドで活躍している事が目に付く。 Luis-Maryの面々もそれぞれのバンドを行き渡り結成されたメンバーであったが、解散の危機が訪れたのは一度や二度ではなかった。
大阪でそこそこの人気を博しライブハウスとも契約を結び、テレビ出演も果たした西川にとって「本当にメジャーデビューができる。ここまできたらそれしかない。」、東京に出てメジャーデビューする事しか頭になかった。メンバーの誰もが西川の歌唱力にはそれなりの評価をしていた。みんなプロになりたい気持ちはあるが、バンドだけに夢中になるという事が他のメンバーはどうしてもできなかった。そこに西川がジレンマを感じたようだ。よって突如として3人のメンバーの前から姿を消した西川であったが3人は西川を見つけ出し西川を説得した。結局熱心に説得を続けるメンバー達の情熱に西川もようやく心を開いた。 4人のメンバーの葛藤は様々な面で頭をもたげた。しかしそんな事を言い出したらバンドとしての活動が成り立たない事はみな承知であった。そしてメンバーそれぞれの葛藤と我慢が実を結ぶ時が来た。
[編集] FOLK SONG RECORDSからCDリリース
数々の困難を乗り越え、着実に実力をつけてきたLuis-Maryに対し、ライブハウスのオーナー※はここでまた一策を案じた。「インディーズでCDを出してみよう。」。Luis-Maryはさっそくレコーディングに入った。 TV出演も果たしインディーズでありながらもCDをリリースしたLuis-Mary。そんな彼等の元に東京のレコード会社「日本クラウン」から声がかかった、「音もなかなかいいし東京に出てメジャーデビューしてみないか」、と。 もちろんこの話にはメンバー全員が飛び上がって喜んだ。
※FOLK SONG RECORDからのリリースに至るまで強力にLuis-Maryをプッシュしたのは、当時ヤンタ鹿鳴館のブッキングマネージャーであった中塚芳生で、日本クラウンとの関係も中塚芳生がボーカルをつとめたナムチェバザールを通じての縁によるものである。ちなみにFOLK SONG RECORDからリリースされたCDシングルLainy BlueとアルバムESCAPE~鏡の中で~は中塚芳生のプロデュースである。
[編集] 東京進出
上京するとクラウンレコード側はすぐにLuis-Maryの持ち歌を聴き、レコーディングの準備に入った。 また、東京でのスケジュール管理をするため連絡事務所も必要となりLuis-Maryは当時BUCK-TICKが所属していた音楽プロダクション『V・シェイクハンド』に所属する事になった。それ以前にアーティスト契約としてライブハウス『YANTA鹿鳴館』(現・西九条ブランニュー)との契約も残っていたがLuis-MaryのメンバーがV・シェイクハンドと東京で結んだ契約についてYANTA鹿鳴館は、「彼等のためだったら」と、太っ腹なところを見せ、口出しはしなかった。クラウンレコード側も大阪でのLuis-Maryの人気、そしてバンドの実力をじっくり見すえた結果、次々とCDをリリースしていった。
東京に進出していよいよメジャーデビューを果たしたLuis-Mary。アルバムを精力的に製作する一方、ファン層も広げて行こうとファンクラブ『Luis-Mary OFFICIAL FAN CLUB XTRA ISSUE』を発足し、会報も作られた。 音楽活動こそ充実していたLuis-Maryだったがクラウンレコード側はLuis-Maryの売り出しに余念がない。「CDを出し続ければ絶対に売れるに違いない」、かなりのバックアップ体制で彼等をプッシュしていった。何もかもが順調に行くかに見えていた。が、思うようにCDは売れなかった。
[編集] Luis-Mary解散
レコード会社のバックアップ体制のもと、ラジオに出演したり次々とCDをリリースしていったLuis-Mary。しかしメジャーデビューを果したもののファンの目には留まらず、そんな苛立ちがメンバー4人の中に渦巻くと何かと軋轢も生まれてくる。後にもう一度やり直そうという話になったが西川の焦燥感・音楽性の違いや、自分のこれからの目指すものの方向づけがバンドの方向と違うと言い出し、結局はバラバラになり活動して行こうと言う事になった。他のメンバーからすると解散する事は最後まで不本意だった模様。 1993年3月16日のラストライブをもって解散した。
[編集] その後の活動
解散してバラバラになったメンバーは持っていた夢を捨て切れずそれぞれが音楽活動を続けている。HAINEこと西川は後にソロプロジェクトであるT.M.Revolutionを立ち上げ活動を続けていく。ZYENOとSHIENもそれぞれのバンドで活動中。ただ、ドラムのKENに至っては東京でサラリーマンに転職した。 また、西川がT.M.Revolutionとしてデビューした後、日本クラウンからLuis-Maryのベスト盤のアルバム・VHSがリリースされている。
不思議な話ではあるが西川は「お前が抜けるという事でバンドを解散したんだから責任を取って残れ」と言われ、T.M.Revolutionとしてデビューするまで事務所に残り、給料も出ていた。
[編集] DISCOGRARHY
[編集] シングル
- Lainy Blue(1991年1月23日)(インディーズ、1000枚限定)
- RAINY BLUE(1991年11月21日)
- WHiSPER(in your eyes)(1992年3月10日)
- DRIVE ME MAD(1992年10月21日)
[編集] アルバム
- ESCAPE~鏡の中で~(1991年6月20日)(インディーズ)
- DAMAGE(1991年7月21日)
- 砂漠の雨(1992年3月16日)
- RUSH(1993年3月5日)
- Best Collection(1993年7月21日)
- PERFECT SELECTION(1997年9月26日)
- PERFECT SELECTION.2(1997年12月17日)
- PERFECT SELECTION.3(1998年3月18日)
[編集] VHS
- Imperfect Crime(1991年12月16日)
- PERFECT SELECTION.4(1998年5月21日)