鹿港鎮
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
台湾省彰化県鹿港鎮 | |
地理 | |
位置 | 東経120°26"30' 北緯24°07"10' |
面積 | 39.4625km² |
人口 | |
戸口(2006年4月) | 20,711戸 |
人口(2006年4月) | 84,985人 |
政治 | |
行政区分 | 鎮 |
鎮長 | 王恵美 |
地方自治期間 | 鹿民鎮民代表會 |
下部行政区画 | --里--鄰 |
その他 | |
郵便番号 | 505 |
市外局番 | 02 |
鎮花 | - |
鎮鳥 | - |
鎮樹 | - |
古称 | 鶯歌石 |
|
|
|
鹿港鎮(ろこうちん、Lugang、ルーガンちん)は台湾彰化県に所属する鎮。
目次 |
[編集] 地理
鹿港鎮は彰化平原北西部の鹿港渓北岸似位置している。西側は台湾海峡に面し、東は秀水郷と、南は鹿港渓を隔てて福興郷と、北は番雅溝を隔てて線西郷及び和美鎮と接している。
[編集] 歴史
鹿港は台湾西岸の中間に位置し、清の統治時代には天然の良港として商業の中心地として発展した。鹿港は鹿仔港とも呼ばれ、語源に関しては下記の4説がある。
- 台湾の中部に鹿が多く生息しており、その鹿が海辺に集まっていたことから鹿仔港、後に鹿港と簡称された。
- 鹿港一体には平埔番巴布薩族 (Babuza)の居住地であり、 平埔族のRokau-anが音訳されて鹿港となった
- 地形が鹿の形に似ていたことから鹿仔港と称されるようになった
- 昔は米穀の集散地として栄えており、米穀を保存しておく倉庫を鹿と呼んだことから鹿仔港となったという説である。これは現在の美市街をかつて米市街と称していたことも傍証と言える。
オランダ統治時代、鄭政権から清初にかけては馬芝遴社と称されており、鹿港の名が文献上に現れるのは1784年である。この年鹿港と福建省蚶江の間で航路が開かれ鹿港の黄金時代が始まった。1785年から1845年にかけてが鹿港の全盛期であり、人口は約10万と当時の台湾において第二の都市となっていた。当時の鹿港は八大商業組織が存在し、鹿港八郊と称されていた。それが泉郊金長順、廈郊金振順、南郊金進益、竹敢(発音はKam,雑貨の意味)郊金長興、油郊金洪福、糖郊金永興、布郊金振万、染郊金合順である。
しかし時代が経つにつれ、港湾に河川の堆積物が堆積し、また日本統治時代に彰化平原の物産の輸送に主眼を置いた為縦貫線は彰化駅、員林駅を経由することとなり、鉄道輸送網から外れた鹿港の経済的繁栄は終止符を打つこととなった。
[編集] 経済
[編集] 行政区
大有里 中興里 洛津里 順興里 菜園里
街尾里 泰興里 長興里 興化里 龍山里
景福里 郭厝里 新宮里 玉順里 東石里
永安里 埔崙里 頂厝里 東崎里 廖厝里
詔安里 海埔里 洋厝里 草中里 山崙里
頭南里 頭崙里 頂番里 溝墘里
[編集] 教育
区分 | 数 | 名称 |
---|---|---|
大学 | 0 | - |
高中 | 1 | 国立鹿港高級中学 |
高職 | 0 | - |
国中 | 2 | 彰化県立鹿港国民中学 彰化県立鹿鳴国民中学 |
国小 | 9 | 彰化県立鹿港国民小学 彰化県立文開国民小学 彰化県立洛津国民小学 彰化県立新興国民小学 彰化県立海埔国民小学 彰化県立草港国民小学 彰化県立頂番国民小学 彰化県立東興国民小学 彰化県立鹿東国民小学 |
[編集] 交通
[編集] 歴代鎮長
代 | 氏名 | 着任日 | 退任日 |
---|---|---|---|
初代 | 丁瑞彬 | - | - |
第2代 | 辜本 | - | - |
第3代 | 陳培煦 | - | - |
第4代 | 侯明輝 | - | - |
第5代 | 許嘉興 | - | - |
第6代 | 施恵洲 | - | - |
第7代 | 郭柳 | - | - |
第8代 | 楊慶財 | - | - |
第9代 | 王福入 | - | - |
第10代 | 詹益林 | - | - |
第11代 | 李棟樑 | - | - |
第12代 | 黄正隆 | - | - |