顕昭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
文学 |
ポータル |
各国の文学 記事総覧 |
出版社・文芸雑誌 文学賞 |
作家 |
詩人・小説家 その他作家 |
顕昭(けんしょう:大治5年(1130年)? - 承元元年(1209年)?)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての歌僧。亮公(すけのきみ)、亮阿闍梨(すけのあじゃり)とも呼ばれる。父母については不明であるが、藤原顕輔の養子となる。1191年(建久2年)までに阿闍梨、晩年に法橋に叙せられた。
少年期比叡山で修学したが離山、後に仁和寺に入寺し、「袖中抄(しゅうちゅうしょう)」など多くの歌学書を著している。それらの大部分は仁和寺宮守覚法親王に献呈したものである。
顕輔・清輔没後は六条藤原家の中心的存在として歌壇で活躍。歌合への出詠は20数度に及ぶ。「六百番陳状」は「六百番歌合」の判者藤原俊成への反駁文である。「千五百番歌合」などの判者も勤めている。
実作上では「万葉集」尊重、風情重視の立場をとり、藤原定家(俊成の子)らと対立したが、むしろ六条藤原家歌学の大成者としての功績が大きい。