雪舟
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雪舟(せっしゅう、1420年(応永27年) - 1502/1506年(永正3年))は号で、15世紀後半室町時代に活躍した水墨画家・禅僧で、画聖とも称えられる。日本の水墨画を一変させ、後世の画家に多大な影響を及ぼした。
諱(いみな)は等楊、若くは拙宗(せっしゅう)と号した。 備中国に生まれ、京都・相国寺に入ってから周防国に移る。その後遣明使に随行して中国(明)に渡って中国の水墨画を学んだ。作品は数多く、中国風の山水画だけでなく人物画や花鳥画もよくした。大胆な構図と力強い筆線は非常に個性的な画風をつくりだしている。
現存する作品のうち6点が国宝に指定されており、日本の画家のなかでも別格の評価を受けているといえる。このため、花鳥図屏風などに「伝雪舟筆」される作品は大変多く、真筆であるか専門家の間でも意見の分かれるものも多々ある。
代表作は、「山水長巻」「夏冬山水図」「天橋立図」「破墨山水」など。
弟子に、秋月、宗淵、等春らがいる。
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[編集] 生涯
1420年備中国赤浜(現在の岡山県総社市)に生まれる。生家は小田氏という武家とされる。幼い頃近くの宝福寺に入る。10歳頃京都の相国寺に移り、春林周藤に師事、禅の修行を積むとともに、天章周文に絵を学んだ。
1454年(応永28)ごろ周防国に移り、守護大名大内氏の庇護を受け、画室雲谷庵(山口県山口市)を構える。1465年(寛正6)ごろ、楚石梵琦(そせきぼんき)による雪舟二大字を入手し、龍崗真圭に字説を請う。以後、雪舟を名乗ったものと思われる。これ以前は拙宗等楊と名乗っていたと思われるが、拙宗と雪舟が同一人物であることを示す確実な史料はない。
1468年(応仁2)に遣明使船で明へ渡航。約2年間中国で本格的な水墨画に触れ、研究した。
没年は、確実な記録はないが1506年とするものが多い。1502年とする説もある。雪舟の生涯には没年以外にも謎とされる部分が多い。
[編集] 涙で描いた鼠
- 宝福寺に入った幼い日の雪舟が、絵ばかり好んで経を読もうとしないので、寺の僧は雪舟を仏堂にしばりつけてしまいました。しかし床に落ちた涙を足の親指につけ、床にねずみを描いたところ、僧はその見事さに感心し、雪舟が絵を描くことを許しました。
この伝説はおそらく雪舟について最もよく知られた話であろう。初出は江戸時代に狩野永納が編纂した『本朝画史』(1693年刊)。
[編集] 神格化
雪舟の神格化は江戸時代から始まった。狩野派が当時画壇を支配していたが、雪舟を師と仰ぎ、諸大名が雪舟作品を求めたからであるとされる。そのために雪舟作とされる作品がふえたという。雪舟人気を反映し、下記のような作品が上演された。
[編集] 主な作品
[編集] 国宝
- 天橋立図(京都国立博物館)
- 四季山水図巻(山水長巻)(毛利博物館)1486年(文明18年)
- 秋冬山水図(東京国立博物館)
- 破墨山水図(東京国立博物館)1495年(明応4年)
- 慧可断臂図(愛知県・斉年寺)1496年(明応5年)
- 山水図(個人蔵)
[編集] 主な重要文化財
真筆の可能性の高いものを挙げる
- 四季山水図(東京国立博物館)
- 四季山水図(石橋美術館)
- 四季山水図巻(山水小巻)(京都国立博物館)
- 倣高克恭山水図巻(山口県立美術館)
- 倣夏珪山水図(個人蔵)
- 倣李唐牧牛図(山口県立美術館)
- 倣梁楷黄初平図(京都国立博物館)
- 倣玉澗山水図(岡山県立美術館)
- 山水図(香雪美術館)
- 四季花鳥図屏風(京都国立博物館)
- 益田兼堯像(益田市立雪舟の郷記念館)
- 毘沙門天図(個人蔵)
- 山水図(京都国立博物館)
- 溌墨山水図(正木美術館)
[編集] 参考文献
- 『没後500年 特別展「雪舟」』図録、東京国立博物館・京都国立博物館、2002
- 沼田頼輔『画聖雪舟』(『論創叢書』1)、論創社、2002年3月。ISBN 4-8460-0241-1
- 山下裕二・赤瀬川原平『雪舟応援団』
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 益田市立雪舟の郷記念館 - 島根県益田市