龍造寺政家
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龍造寺 政家(りゅうぞうじ まさいえ、弘治2年(1556年) - 慶長12年10月2日(1607年11月21日))は龍造寺隆信の嫡男。
1584年に父が戦死すると後を継いだが、もともと暗愚なうえ病弱でもあったため、国政の実権は重臣の鍋島直茂に握られることとなった。しかし、隆信の死で勢いづいた島津氏の侵攻は如何ともしがたく、政家は島津氏に降ることとなった。
1587年、豊臣秀吉の九州平定により肥前七郡三十二万石を安堵されるが、病弱であったため、国政の実権は相変わらず鍋島直茂に握られることとなった。政家には龍造寺高房という息子がいたが、政家は実子の高房よりも直茂に家督を譲ろうとしていた節がある。このためであろうか。1607年、高房は乱心して自害未遂を起こし、これがもとで亡くなると、政家も高房の死がショックだったのか、その後を追うように亡くなった。
政家の死により、龍造寺宗家は完全に滅亡した。