金鍾泌
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金鍾泌 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 김종필 |
漢字: | 金鍾泌 |
平仮名: (日本語読み仮名): |
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片仮名: (現地語読み仮名): |
キム・ジョンピル |
ラテン文字転写: | Gim Jongpil |
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金鍾泌(キム・ジョンピル、1926年1月7日 - )は、大韓民国の政治家。忠清南道扶余郡出身。号は雲庭。金泳三・金大中とともに韓国政治史上に三金時代を築いた。朴正煕政権、金大中政権において首相を歴任。妻は朴正熙の姪・朴栄玉(パク・ヨンオク、박영옥)。愛称はJPK。韓国のマスコミがJFKをもじってつけたもの。また、日本人記者との食事会の会話の中で、「ならぬ堪忍、するが堪忍」といった日本人でも知る人の少ない浄土宗の格言を発した事からも、相当な知日派であることが伺える。
[編集] 略歴
- 1947年 国立ソウル大学校師範大学教育学部修了
- 1949年 陸軍士官学校8期卒業.
- 1958年 陸軍情報参謀部企画課長
- 1961年 朴正煕と5・16軍事クーデターを主導し、初代中央情報部長に就任
- 1963年 陸軍准将に予備役編入して政治に参加、忠清南道扶余で第6代国会議員に当選。同年共和党議長に就任
- 1968年 3選改憲反対と係わる共和党内の汚職事件ですべての公職を辞退し政界引退
- 1971年 大統領選挙を控えて共和党副総裁で政界に復帰し、国務総理(~1975年)
- 1979年 朴正煕大統領暗殺事件により共和党総裁に推戴
- 1980年 共和党大統領候補で出馬準備中、全斗煥・盧泰愚など新軍部により自宅軟禁
- 1987年 9月政界再復帰宣言後、新民主共和党を創党,大統領候補に出馬したが落選
- 1990年 執権与党である民主正義党・統一民主党との内閣制改憲に合意し、3党合同で民主自由党を結成、最高委員就任
- 1992年 金泳三大統領当選に貢献し、民主自由党代表最高委員に就任
- 1995年 民主自由党内世代交代論に反発、脱党後自由民主連合を創党
- 1997年 12月第15代大統領選挙で金大中・朴泰俊といわゆるDJP連帯を通じて金大中の大統領当選に貢献した.
- 1998年 新政治国民会議・自由民主連合共同政権の国務総理(~2000年)
- 2000年 韓日議員連盟会長
- 2001年 自由民主連合総裁
- 2002年 サッカーワールドカップ国会議員連盟会長などを務めた.
- 2004年 総選挙で落選し、自由民主連合も惨敗したため、4月19日に政界引退を表明。